人生で一番、緊急で、切実なことは何か、考えたことありますか?
本当に大事なこと(古人はこれを「道」と呼びました)に無頓着になり、道から離れれば離れるほど、刹那的で表面的になりがちです。単に、苦をさけ、快を求めるだけに陥りがちです。(私自身、いともたやすくこうなりがちだと痛感しています。)
どういう心の状態(境地)になったかとか、どの考え(禅だ、仏教だ、何やかや)や方法が正しいかとか、あれやこれやでウロウロしているだけでは、表面的な満足しか得られず、虚しく一生を終えるだけではないでしょうか?
自分の外側に何か教えや方法を求めてウロウロしたり、内面の境地作り(「ありのままを見る状態」とか「静かな心の状態」などの作り事)に夢中になったり、しかもそれが禅とか仏教だと思っていたり。私はこのように、ああだこうだとウロウロしてばかりいました。
本当に大事なこととは離れた「作り事的人生」の虚しさを、臨済禅師は本当に切々と語りかけてくれています。
外へ教えを探すことや、内面の境地みたいな作り事でウロウロを、スパッとやめたところに、命(身と心、あるいは魂)が本当に養われる道が開けます。
あれかこれかを放って立ちなおす時に、身体の姿勢も、ガラッと変ります。岡田虎二郎が、「腰を立てる瞬間に一切が変る」と述べていますが、これは本当です。
腰とかお腹や背中(上体)をアレコレしているのでなく、あれこれをスパッとやめて、足で地面を踏んで立ちなおす瞬間に一切が変ります。
(岡田氏は、これを「静坐」と呼んでいます。私は、通例に従って「坐禅」と呼んでいます。内実が大事であって、呼び方は、どうでもよいことですが。)
「『素養がある』とは、逆境に陥るとか生死の境にあるとか、煩悶懊悩のあるものが、背水の陣を布いて静坐するのをいう。」
「生命は天に任せて、我等は姿勢正しく坐るという道があるきりです。」
この岡田虎二郎の言葉に、私は完全に同意します。
どんな逆境にあったとしても、煩悶懊悩の真っ只中だったとしても、この道を歩んでいきませんか?
本当に緊急で切実なことを、今ここでやっていくことほど重大なことは、他にないと思うからです。
たまたま人間に生まれて、これほど大事なこと、幸せなことは他にないと思うからです。