「坐禅(禅定)」とか「瞑想(ありのままを見る等)」とか、「ありのままを感じる身体技法」とかで、私には長年、一つの大きな疑問があった。
(良い子の方は、以下、読むのをお勧めしません。)
例えば、
学校の勉強するとか、
受験対策の勉強するとか、
規則をまぁ守るとか、
これらは、まぁ理由も納得できるし、そこそこに私はやってきた。
だけど、
「呼吸を数えてなさい」とか、
「お腹の膨らんだ凹んだの感覚を心で見つめなさい(感じなさい)」とか、
歩く時、「足の裏が床に着いたら『着いた』と気づき、離れたら『離れた』と気づきをいれなさい」
とか、あまりにも意味不明すぎないか?
こういうのをまじめにやる人がいるとしたら、
よっぽどのまじめちゃんか、あるいは洗脳されているか、
どちらかではないか?
「よく、そんないい子ちゃんしてられるな」と、
私の心はいつも叫んでいた。
映画『アナと雪の女王』の中で次のセリフ(歌)が繰り返される。
「Be the good girl you always have to be.」
(ずっと「いい子」でいなくちゃいけないよ。今もいい子でいなさいね。)
こんな生活、耐えられるか?
「ふざけるんじゃねぇ」と私は言いたい。
ウィリアム・ジェイムズの本を読んでいたら、ジェイムズも同じことを語っていて、私は心底ホッとした。
Chautauqua(シャトークァ)という「いい子ちゃんの町」に1週間滞在した後、元の普通の悪い町に戻った後、ジェイムズの心は次のように叫んだ。
"Ouf! what a relief! Now for something primordial and savage, even
though it were as bad as an Armenian massacre(アルメニアの大虐殺),
to set the balance straight again.
This order is too tame,
this culture too second-rate,
this goodness too uninspiring.
This human drama without a villain or a pang; this community so refined that ice-cream soda-water is the utmost offering it can make to the brute animal in man;
this city simmering in the tepid lakeside sun;
this atrocious harmlessness of all things,
—I cannot abide with them. "
James, William. Talks To Teachers On Psychology から引用。
(ざっと意訳:
いい子ちゃんの町シャトークァにしばらくいたから、今度は、アルメニア大虐殺くらいの悪に行ったろか。
バランスを立て直すためには、それしかねえぜ。
それにしても、あのいい子ちゃんの町の秩序は、あまりにも飼いならされてる。
そこの文化はあまりにも二流だ。
そこでの「善」は何も啓発するものがない。
生ぬるい、無害な、腐ったような町、あんなところに住んじゃいられねえぜ。)
ジェイムズは、
「a social process …in the long run seems everywhere tending toward the Chautauquan ideals
(社会のプロセスは、結局のところ、『シャトークァ的理想』に向かって進んでいる)」
とも言っている。
世界全体が「いい子ちゃんの町」に向かって進んでいるというのか。
ジェイムズの心が、120年以上前にこう叫んだ場所シャトークァに、ちょっと行ってくる予定です。
(ニューヨーク州の西の端)
みなさん、
「感情がやってくるのを、ありのままに見、去るのもありのままに見ましょう」
みたいのに耐えられますか?
ジェイムズのザ・ベストマニュアルは、
「感情は来るなら来るにまかせ、去るなら去るにまかせ、完全に放っておけ!」です。
いわゆる瞑想とは天地ほど違います。
もう、いい子ちゃんはやめよう。
棒立ち(棒坐り)もやめよう。
脱いい子、脱棒立ち(棒坐り)、これだけで一生やっていこう。
「いい子ちゃんをやめ、どれが正しい・間違いとか、できた・できないとかアレコレを一切放って、棒立ちをやめて、自分の足で立て!」