30年前と変わらないこと(家庭教師先の福田君宅にて2)。
1987年、当時小学五年生の福田君宅で、二冊の本(マンガ)に涙した。一冊、「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」が出てくる本。
もう一冊は、親鸞さんが主人公のマンガだ。
親鸞さんは、罪人として、京都追放の刑を受けるが、茨城県にも20年ほど滞在する。そこで、法然上人直伝の教えを生き、人にも伝える。その後、京都に戻る。
茨城県の信者の間で、親鸞さんが離れてしまった後、問題が起こる。一つは、他の宗派から、「念仏を唱えても地獄に落ちる」と批判されたこと、もう一つは、親鸞さんの息子とかが「もっと深い教えを聞いてるよ」みたいなことを言ったこと。
疑問が大きくなった茨城県の信者の有志が、疑問に答えてもらうため、京都まで向かう。
マンガでは、強盗に襲われそうになったり、山道で危うく崖から落ちそうになるシーンかま描かれていた。(現代なら新幹線で二時間だけど、当時、歩いての旅は本当にたいへんだったろう。)
さんざん苦労して京都に着き、親鸞さんに会い、その二つの疑問の答えを求めます。
マンガでは、親鸞さんは、静かに念仏を唱えているだけです。
信者たちは、命がけでやってきて、「念仏で地獄に落ちるとも言われてるけど、本当に浄土に行けるのか?」「ただ念仏唱えるだけでない何かあるのか?(あると、あなたの息子が言っているよ)」との質問に、親鸞さんは、ただ念仏を唱えているだけです。
そのうちに、信者たちは、これが親鸞さんのギリギリの答えと気づく、というマンガです。
私は、福田君宅で、これを読むたびに、涙が出そうになりました。
何度ここを読んでも感激は減りません。
この謎を探求することが、私の人生になった感じです。
ちなみに30年過ぎた今でも、ここにこの世で最も大切なものがあるという確信は何一つ変わりません。
ちなみに、親鸞さんの言葉を記した歎異抄には、この時、親鸞さんが語った言葉が記されています。(というか、そこが元で、このマンガが描かれたのです。)
親鸞さんは、「念仏を唱えて地獄に落ちるか極楽に生まれるか、全く知らない」「念仏以外の教えは全く知らない」と明確に答えています。
後に西田幾多郎が、イエスの言葉と、この親鸞さんの言葉を「宗教の極意」とのべているのを知り、まさにその通りだと思いました。この確信も私が死ぬまで絶対に変わりません。
「この酒は飲みたくない。だけど私が望むことでなく、あなたの望むことが実現しますように」「念仏して地獄に落ちるか浄土に行くか全く知らない」という極意の他に、私も、人生のだいじなことに関して、他に何も知りません。(この他に禅とか坐禅があるとしたら、そのような禅や坐禅は私にとって、どうでもよいことです。)
この、30年の間に、禅とか坐禅で何かもっとマシなものないかと思って、ちょこちょこ模索しましたが、それはすべて過去のことです。
親鸞さんの、あの姿勢に涙した感動、これは30年たっても何も変わりませんし、死ぬまで変わらないでしょう。
本当に有り難いことです。