ニューヨーク大菩薩禅堂で接心に参加

大菩薩禅堂での接心に臨むにあたっての決意(5月5日):

明日から5日間、ニューヨーク近郊の大菩薩禅堂で接心。
今からちょうど25年前の今の時期、初めて泊まり込み(5日間くらい)で相国寺専門道場の大接心に参じた。
そのちょうど25年後、ニューヨークで接心に参ずるのは実に感慨深い。

坐禅に関して、この25年で、変わったこと、変わらないこと、それを振り返ってみよう。

25年前は次のように思っていた。「坐禅を真剣に長く続けていると、何らかの特殊な体験をするとか、『気づき』とかがあって、『悟り・見性』なるものをして、立派な人間、人のためになる人間になれるのでは」と。
(坐禅を実際に修行する一つでも、しない人でも、そのように思っているのは多いのでは)
今は、そんなことを全く思っていない。これは私の修行人生の中では画期的な変化だ。(25年前に、そのような浅薄な思いを抱いていたことを別に恥じる気持ちもない。)

また当時時は、「坐禅=足を痛いのを我慢すること」「坐禅=呼吸を数えるなどして精神を集中すること」「坐禅=丹田呼吸に習熟すること」だと思っていた。
今は、そのようなことを全く思っていない。(足が痛いのは、ちゃんと坐れていないという大事なメッセージだし、「特定の技法に熟達する」などという狭い発想が、人生で一番大切なことではあるまい、と今は明確に思う。)

変わったこと。
一番の大変化は、「方法(コツ)探し」と禅(坐禅)は完全に無関係であることを悟ったこと。これまでは、人生で一番大接な「道」を歩むため、瞑想法(数息観とか)や、呼吸法や、身体技法(足首回しから始めたり)など、何らかの、方法があるはずだと思いこんでいて、それを探していた。
もちろん、例えば、パソコンをするとか、車の運転をするとか、すべての個々のことに「方法」はあるだろう。
だけど、「道」(人生で最も大切なもの)に、あれこれ(理屈や方法)はない。

私たちが、人生で、目的をもち、成果を得るため、知識や技術の習得に励むのは当たり前だし、大事なことだ。
だけど、道は、個々の目的や方法と、別で、すべてを包むものだ。

すべての目的や方法を、いったん脇へおくこと、何もないところに立ち返ること、この道があることに気づいたのが、25年で一番の変化だ。(これは仕事や趣味や、パソコンや、車の運転など、すべてと何の矛盾ものない。)

この、あれこれなしの道が、強いて言えば(言わなくても一向にかまわないけど)「坐禅」だと今は、思う。
これは、私のオリジナルな考えでなく、「彼此(あれこれ)をともに亡ずるのが、真の坐禅だ」と日本に残っている最古の本にも書かれていることだ。(聖徳太子)

日本に帰って、死ぬまで、この道を歩む決心を深める接心にしたいと思っている。

今後の人生、私自身が、そのようなものを放って、人と出会うことを貫いていこう。
今、住職をしている天正寺を、各自の目的や、コツ探しを、すべて放ったことろに立ち返る場にしよう。

2017年05月07日