滋賀県の守山市にある閻魔堂にお参りしてきました。
ここは一遍上人が1279年にこの場所に来て念仏を広めた場所です。
比叡山の重敏という名前の僧侶が、一遍上人が何をしているかを見に来ると、念仏を唱えながら踊っていました。それを見た重敏は、踊って念仏を申すのはけしからんと言いました。
それに対して一遍上人は歌を作って答えました。
はねばはね踊らばおどれ 春駒の のりの道をば しる人ぞしる
この歌の意味は、
「はねるならはねたらよい。
踊るなら踊ったらよい。
そのような暴れ馬のような心である私たちを
阿弥陀仏は救ってくれるのだ。
この法(のり)、仏法をわかる人はわかる」
というような意味です。
それに対して重豪(しげとし)も歌を作って返しました。
「こころ駒 のりしずめたるものならば さのみはかくや 踊りはぬべき」
意味は、
「暴れ馬のような心、それを法(のり)、仏法の修行で、落ち着いて澄んだ心に静めていくならば、
そのように躍ったり跳ねたりはしなくなるのではないか」
というような意味です。
これはお経にある言葉
「心馬、悪道を走り、放逸にして制禁すること難し」
を踏まえています。
暴れ馬のような心は、悪道を走っていき、暴れ馬が暴走して人をけがさせたり、場合によっては死なせてしまうことがあるように、暴れ馬のような心のままでいては悪いことばかりになる。
それを澄んだ清い心にしていくのが仏道修行だ、という意味です。
重豪(しげとし)は、この通常の仏法の教えを踏まえて、
先の歌を作ったのです。
これに対して一遍上人はまた歌を作って返します。
ともはねよ かくてもおどれ 心ごま 弥陀の御法と聞ぞうれしき
意味は、
「ともかくも、跳ねるなら跳ねよ、躍るなら踊れ、
そのような暴れ馬のような心でいる私たちを
救ってくれるという阿弥陀様のみ教えを聞けた
ことは何と嬉しいことか。
その嬉しさで、心が跳ね躍るようだ。」
「心猿意馬」という言葉もお経によく出てきます。
猿のような心、暴れ馬のような心という意味です。
これをまったく気にすることなく、そのまま南無阿弥陀仏を唱えたらよいのです。
私のような禅の立場でしたら、猿や馬のような心のそのままで正身端坐したらよいのです。
何と嬉しいことではないですか。