法然上人の言葉1

法然上人の言葉1(観法)

近来の行人、観法をなす事なかれ。佛像を観ずとも、運慶・康慶が造りたる佛程だにも観じあらわすべからず。極楽の荘厳を観ずとも、桜梅桃李の花菓程も、観じあらわさん事かたかるべし。彼の佛、今現に世に在して成佛し給えり。当に知るべし、本誓の重願、虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得の釈を信じて、ふかく本願をたのみて、一向に名号を唱うべし。

(意訳)
(浄土門に入り)仏道を行ずる人は、「観法」(阿弥陀仏や浄土の様子などを観ずる、心の目で見る瞑想)などやめちまいなさいよ。
「仏の姿を観ずる」と思って行じても、運慶や康慶が作った仏像を実際に見ている時ほども、観ずることできないでしょう。「浄土の素晴らしい様子を観ずる」と言っても、目の前の梅や桜の花びら等を実際に見る時ほどにも、観ずることできないでしょう。
南無阿弥陀仏と唱えれば必ず救うという仏の誓いを深く信じましょう。

(私釈)
「観無量寿経」に、仏や浄土を観ずる瞑想が、細かく書かれています。「日想観」といって、沈んでいく夕陽を見、沈んだ後も心の目で観ずる瞑想から始まり、16の瞑想が詳しく書かれています。浄土の教えを信ずる人は、平安時代(法然上人以前の時代)から、それを行じていました。

法然上人は、お経に書かれている、その瞑想を、スパッと全部やめました。
悩みに悩みに悩んだすえ。(スパッと捨てる覚悟ができるまでに、どれほどか悩んだことでしょ。この法然上人の苦しみに、私はどんなに感謝しても感謝しきれません。)

瞑想など全くできなくても、名号(南無阿弥陀仏)を唱えれば救われるという、それだけを生涯信じ、人にもそう説き、「どんな罪人にも、自分にも、その誓いがかけられている」と信じて、人と接しました。

阿弥陀仏を観ずる瞑想すら問題外として全くやめたくらいですから、ましてや、「気づき」の心の在り方を修していくとか、さらに全く問題外です。
一見すると、通常の「仏教」や「浄土教」(法然上人以前の浄土教では、阿弥陀仏や浄土を観ずることを重視しています)の教えと完全に逆です。ですが、私が思うに、アッタカヴァッガという一番古いお釈迦さまの言葉とはピタリ一致しています。
何という素晴らしいことでしょうか。

仏を観じたり、浄土を観じたり、数息観をしたり、禅定や三昧に入ったり、「気づきの瞑想」を修していくのも、それはそれで素晴らしいことだと思います。
 
ですが、もし、「このようなことを続けていても、自分の心にとらわれたままで、それを抜け出るのは決してできないのでは?」との疑問が起こり、その疑問に本当に真剣に向き合うならば、法然上人の大転換のありがたさが身にしみる時がくるかもしれません。
2016年03月10日

2017年01月01日