維摩経原典(鳩摩羅什訳・支謙訳)と日本語訳

◎『維摩詰所説経』弟子品第三 鳩摩羅什[350~409]訳
爾時、長者維摩詰、自念。「寝疾于床。世尊大慈、寧不垂愍。」
仏知其意。即告舍利弗。「汝行詣維摩詰問疾。」
舍利弗白仏言。「世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。
憶念、我昔曽於林中宴坐樹下。時維摩詰来謂我言。
『唯舍利弗。不必是坐為宴坐也。
夫宴坐者、不於三界現身意、是為宴坐。
不起滅定而現諸威儀、是為宴坐。
不捨道法而現凡夫事、是為宴坐。
心不住内亦不在外、是為宴坐。
於諸見不動而修行三十七品、是為宴坐。
不断煩悩而入涅槃、是為宴坐。
若能如是坐者、仏所印可。』
時我世尊。聞説是語黙然、而止不能加報。
故我不任詣彼問疾。」

◎『維摩詰所説経』 弟子品第三 支謙[196頃~255頃]訳
於是長者維摩詰自念。「寝疾于床。念仏在心。仏亦悦可是長者。」
便告賢者舍利弗。「汝行詣 維摩詰問疾。」
舍利弗白仏言。「我不堪任詣彼問疾。所以者何。
憶念我昔常宴坐他樹下。時維摩詰来謂我言。
『唯舍利弗。不必是坐為宴坐也。
賢者坐、當如法不於三界現身意、是為宴坐。
不於内意有所住、亦不於外作二観、是為宴坐。
立於禅不滅意現諸身、是為宴坐。
於六十二見而不動、於三十七品而観行。
於生死労垢而不造、在禅行如泥洹。
若賢者、如是坐如是立、是為明暁如来坐法。』
時我世尊。聞是法黙而止不能加報。
故我不任詣彼問疾。」


◎日本語訳『維摩経』植木雅俊訳(岩波書店)
第3章:声聞と菩薩に見舞い派遣を問う
その時、リッチャヴィ族のヴィマラキールティ(維摩詰)[の心]にこの[思い]が生じた。
 「私は、病になって苦しみ、寝台に臥している。けれども、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来は、私のことを知ることもなく、私への哀れみの故に、病気の見舞いに誰かある人を遣されることはないのだろうか?」
 すると、世尊は、リッチャヴィ族のヴィマラキールティの[考えている]ことを察知された。
 そこで、世尊は、尊者シャーリプトラ(舎利弗)におっしゃられた。
 「シャーリプトラよ、あなたは、リッチャヴィ族のヴィマラキールティの病気見舞いに行くがよい」
 [世尊から]このように言われて、尊者シャーリプトラは、世尊にこのように言った。
 「世尊よ、私は、リッチャヴィ族のヴィマラキールティの病気見舞いに行くことに耐えられません。それは、どんな理由によってでしょうか? 世尊よ、私は、思い出します。ある時、私は、[多くの木々の中の]とある木の根もとで独居して沈思黙考していました。すると、リッチャヴィ族のヴィマラキールティが、その木の根もとのあるところ、そこへ近づいてきて、私にこのように言いました。

 『尊者シャーリプトラよ、あなたが独居して沈思黙考しているような、そのようなやり方で沈思黙考することを企てるべきではない。
 しかるに、三界において身体も、あるいは心も現ずることがないように、そのように、[あなたは]沈思黙考するべきである。
滅尽[定]から背を向けずに、[行・住・坐・臥の四つからなる]すべての威儀において現ずるように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
 [覚りを]達成したという特徴を棄てることなく、凡人の諸々の特徴において現ずるように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
 あなたの心が、自分[の中]にあるのでもなく、[自分を]離れて活動しているのでもないように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
あらゆる[誤った]見解(邪見)に行き着くことを避けることなく、覚りを助ける三十七の[修行]法(三十七助道法)において現ずるように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
[六道における]生存の循環(輪廻)に繋がれている煩悩を断ち切ることなく涅槃に入るように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
 尊者シャーリプトラよ、このように独居して沈思黙考を行なうところの人たち、それらの人たちの沈思黙考を、世尊は認可されるのである』と。

 世尊よ、その私は、この[言葉]を聞いて、ただ黙り込んでしまいました。私は、それ以後、それに対して返事をすることができませんでした。それ故に、私は、その良家の息子(善男子)の病気見舞いに行くことに耐えられません」

サンスクリット原文:
pratisamlayana :
complete absorption, retirement into a lonely place
kaya : body
citta : heart

2017年03月22日