5月24日(日)に読む『夜と霧』テキスト

●5月24日(日)(午前9時半から)は、p180から読みます。

◎『夜と霧』フランクル著。霜山徳爾訳。みすず書房。
(以下p119)
 囚人の宗教的関心は、それが生じる場合には、始めから想像以上の最も内面的なものであった。新たに入ってきた囚人はそこの宗教的感覚の活溌さと深さにしばしば感動しないではいられなかった。この点においては、われわれが遠い工事場から疲れ、凍え、びっしょり濡れたボロを着て、収容所に送り返される時にのせられる暗い閉ざされた牛の運搬貨車の中や、また収容所のバラックの隅で体験することのできる一寸(ちょっと)した祈りや礼拝は最も印象的なものだった。

【◎第七章 苦悩の冠】
(以下p165)
強制収容所にずっと長く留まることが人間に与える典型的な性格特徴を、心理学的に描写し、精神病理学的に説明しようとするこの試みは、人間の心が結局環境によって規定されるという印象を与えざるを得ないかもしれない。たとえば強制収容所では、そこでの生活が、独自な社会環境として、人間の行為を強制的に形づくるのではないだろうか。

 しかし人は当然のことながら異論をたてることができるのである。そして一体それではどこに人間の自由があるのかと問うであろう。一体与えられた環境条件に対する態度の精神的自由、行動の精神的自由は存しないのであろうか? 自然主義的な世界観や人生観が、人間は生物学的であれ、心理学的であれ、社会学的であれ、多様な規定性や条件の産物に他ならないとわれわれに信じさせようとすることは真実なのであろうか? 人間は従ってその身体的体質、その性格学的素質及びその社会的状況の偶然な結果に他ならないのだろうか。もっと具体的に言うならば、収容所生活という特殊な社会的条件の環境に対する人間の心理的反応において、人間は彼が強制的に入
(以上p165、以下p166)
れられたこの存在形式の影響から全く抜き出ることができないといえるであろうか? すなわち彼は収容所を支配していた「諸々の事情の強制の下に他のようにはできなかった」であろうか?

 さてこの問題にわれわれは経験的にも理論的にも答えることができる。経験的には収容所生活はわれわれに、人間は極めてよく「他のようにもでき得る」ということを示した。人が感情の鈍麻を克服し刺戟性を抑圧し得ること、また精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、外的にも内的にも存し続けたということを示す英雄的な実例は少くないのである。
強制収容所を経験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通って行く人間の姿を知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ――彼等は、人が強制収容所の人間から一切をとり得るかも知れないが、しかしたった一つのもの、 すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているのである。

 「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由を奪い、自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。

 あらゆる可能な視点の中で究極のものであるこの視点よりみると強制収容所内の囚人の心理的反応様
(以上p166、以下p167)
式は、ある身体的、心理的、社会的条件の単なる表現以上のものと思わざるを得ないのである――たとえ食物のカロリー不足や睡眠不足やいろいろな心理的「コンプレックス」が、人間が典型的な収容所根性に堕してしまうのを理解させるとは言え――最後の観点においては人間の内部に起ったもの、内的決断の結果が示されるのである。原則的に言えば各人はかかる状態の上でもなお、収容所において何が彼から――精神的意味で――出てくるかということを何らかの形で決断し得るのである。すなわち典型的な「収容所囚人」になるか、あるいはここにおいてもなお人間としてとどまり、人間としての尊厳を守る一人の人間になるかという決断である。

 ドストエフスキーはかつて「私は私の苦悩にふさわしくなくなるということだけを恐れた」と言った。もし人が、その収容所内での行動やその苦悩や死が今問題になっている究極のかつ失われ難い人間の内的な自由を証明しているようなあの殉教者的な人間を知ったならば、このドストエフスキーの言葉がしばしば頭に浮んでくるに違いない。彼等はまさに「その苦悩にふさわしく」あったということが言えるのであろう。彼等は義しき苦悩の中には一つの業績、内的な業績が存するということの証しを立てたのである。人が彼から最後の息を引きとるまで奪うことのできなかった人間の精神の自由は、また彼が最後の息を引きとるまで彼の生活を有意義に形成する機会を彼に見出さしめたのである。なぜならば創造的に価値を実現化することができる活動的生活や、また美の体験や芸術や自然の体験の中に充足される
(以上p167、以下p168)

 享受する生活が意義をもつばかりでなく、さらにまた創造的な価値や体験的な価値を実現化する機会が ほとんどないような生活――たとえば強制収容所におけるがごとき――でも意義をもっているのである。すなわちなお倫理的に高い価値の行為の最後の可能性を許していたのである。それはつまり人間が全く外部から強制された存在のこの制限に対して、いかなる態度をとるかという点において現われてくるのである。創造的及び享受的生活は囚人にはとっくに閉ざされている。しかし創造的及び享受的生活ばかりが意味をもっているわけではなく、生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもっているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命も死もそうである。苦難と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである!

(4月19日、ここまで。5月3日は次から)

 一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命とそれが彼に課する苦悩とを自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況にあってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである――ある人間が勇気と誇りと他人への愛を持ち続けていたか、それとも極端に尖鋭化した自己保持のための闘いにおいて彼の人間性を忘れ、収容所囚人の心理について既述したことを想起せしめるような羊群中の一匹に完全になってしまったか――その苦悩に満ちた状態と困難な運命とが彼に示した倫理的価値可能性を人間が実現化したかあるいは失ったか――そして彼が「苦悩にふ
(以上p168、以下p169)
さわしく」あったかあるいはそうでなかったか――。

 かかる考察を現実からは遠いとか世間離れしているとか考えてはいけない。確かにかかる道徳的な高さはごく僅かな人間にのみ可能であり、ごく僅かな人間だけが収容所で内的な自由について充分知っており、苦悩が可能にした価値の実現へと飛躍し得たのかもしれない。しかしそれがたった一人であったとしても――彼は人間がその外的な運命よりも内的に一層強くあり得るということの証人たり得るのである。しかもかかる証明は多かったのである。

 そしてそれは強制収容所においてばかりではない。人間は到る処で運命に対決せしめられるのであり、単なる苦悩の状態から内的な業績をつくりだすかどうかという決断の前に置かれるのである。たとえば病める人間の、特に治癒の見込みのない人間の運命を考えて欲しい。私自身かつてある比較的若い患者の手紙を読まして貰ったことがある。そのうちで彼はその友に宛てて、自分はもう生きられないこと、手術も彼を救えないことを知ったと書いていた。しかし彼はさらに書き続けて、自分は、勇気と品位を保ちながら死に向って行った一人の男が描かれているある映画を思い出したが、当時自分はこの映画を見て、かくもしっかりと死に向えることは「天の賜物」だと考えたが、今や運命は自分にもこのチャンスを与えてくれた、と書いているのであった。

 またその当時トルストイの原作による「復活」という別な映画を見た人が、ここにこそ偉大な運命が あり偉大な人間が描かれているといい、ただわれわれにはそんな運命は恵まれず、かつかかる人間的偉
(以上p169、以下p170)
大さに成長する機会をもっていないと考え――その上映が終ってから近くのカフェーでサンドウィッチとコーヒーを飲みながら、一瞬間だけ意識をよぎったさっきの形而上的な想いを忘れてしまうといったことは幾らでもみられた。しかしその人間自身が今度は自ら大きな運命の上に立たされ、自己の内的な偉大さで向わねばならない決断の前に置かれるとすると彼はもはや以前考えたことをすっかり忘れて諦めてしまうのである――。

 しかし彼がいつかふたたび映画館に坐り、同じような映画が上映されるのを見るようなことがあったとすれば、彼の心の目の前には同時に想い出のフィルムが廻り、感傷的な映画作品よりも遙かに偉大なことをその生涯において実現化した収容所のある人々を想い出すであろう。そして人間の内的な偉大さを示す幾つかのエピソードのあれこれの細かい内容を想い起すであろう。

 私自身もたとえばこの目でみた強制収容所におけるある一人の若い女性の死を想い出すのである。その話は単純であり、多く語るを要しないのであるが、それにも拘わらずまるで創作されたように詩的な響きをもっているように思われるのである。

 この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされて
(以上p170、以下p171)
いましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。」と彼 女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭(ろうそく)のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄(せんもう)状態で幻覚を起しているのだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしました?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?」 彼女は答えた。「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私はここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ……。」

 既述のように強制収容所の人間における内面的生活の崩壊の究極的な理由は、種々数えあげられた心理的身体的原因の中に存しないで、ある自由な決断に基づくものだとすれば、このことはもっとも詳細に述べられなくてはならない。収容所の囚人についての心理学的観察は、まず最初に精神的人間的に崩壊していった人間のみが、収容所の世界の影響に陥ってしまうということを示している。またもはや内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている。ではこの内的な拠り所とはどこに存するべきであり、どこに存し得るのであろうか? これがいまやわれわれの
(以上p171、以下p172)
問題なのである。

 かつての収容所囚人の体験の報告や談話が一致して示していることは、収容所において最も重苦しいことは囚人がいつまで自分が収容所にいなければならないか全く知らないという事実であった。彼は釈放期限などというものを全く知らないのである。釈放期限は――もしそれが問題になるとしたら(たとえばわれわれの収容所では一度だってこんなことは論じられたことはなかった)――全く不明で、収容期限は限りなく長いものになるのであった。ある著名な心理学者が、収容所における存在様式は「仮りの存在」と名づけられ得るということを指摘したが、われわれはこの特徴の指摘を次のように言って補いたいと思う。すなわち強制収容所における囚人の存在は「期限なき仮りの状態」と定義されるのである。

 新入りの囚人が収容所にやってくると彼等は通常そこを支配している状態について何らの真実も知っていないのであった。収容所から帰ってきたものがあったとしても彼は沈黙していなければならなかったし、またある収容所からはまだ誰も戻ってきたことはないのであった。……収容所に入って行くと共に彼の心内風景は変って行くのである。すなわち未知が終ると共に……今度は終りの未知がもうやってくるのである。この存在形式が終るのか、終らないのか、終るならばいつ終るかは全く見究めることができないのである。

(●5月3日、ここまで。5月10日は次から)

(以下p173)
 ラテン語の finis という言葉は周知のごとく二つの意味をもっている。すなわち終りということと目的ということである。ところで彼の(仮の)存在形式の終りを見究めることのできない人間は、また目的に向って生きることもできないのである。彼は普通の人間がするように将来に向って存在するということはもはやできないのである。

 そしてそのことによって彼の内的生活の全構造が変化するのである。かくして内的な崩壊現象が生じるのであり、われわれはすでに別な生活状態において、たとえば失業者において、彼が似たような心理的状態になるのを知っている。失業者の存在は仮りのものになり、彼もまた未来をさして、また未来における目的をさして生きることはできないのである。失業した鉱山労働者についての一連の心理的研究は、この変型した存在形式の、時間体験(心理学的に内的時間とか体験時間とか呼ばれている)への影響を正確に調べたことがあった。

 収容所では比較的小さな時間間隔は ―― たとえば一日は ―― 毎時毎時になされる悪意ある難癖に充たされて ―― ほとんど限りなく続くように囚人には思われるのである。しかしより大きな時間間隔は ―― たとえば週は ―― 気味悪い程早く過ぎ去って行くように思われるのである。だから私が、収容所では一日の長さは一週間よりも長いと言った時、私の仲間はいつも賛成してくれた。それほど時間体験は無気味な逆説的なものであった。

(以下p174)
 このことに連関して、たとえばトーマス・マンの小説「魔の山」で描かれている適切な心理学的観察を想起することができる。「魔の山」では、いま扱っている強制収容所の囚人とやや比喩的に類似した状況にある人々、すなわち結核療養所の入所患者で、同様に退院の期限を知らず、同様に「未来を失って」、すなわち未来の目的に向けられていない存在を送っている人々の心理的な変化が描かれているのである。

 当時新しく到着した囚人の長い列に入って停車場から収容所へ行進した収容所囚人の一人は後に私に当時のことを述懐して、自分はあたかも自分自身の屍(し)体(たい)の後から進んでゆくかのようだったと言った。 それほど彼は当時、その絶対的な未来の喪失を体験したのだった。それは彼の全生活をただ過去の観点からのみ眺め、ある過ぎ去ったもの ―― 丁度死人のそれのごとく ―― とみなすことを彼に強いたのである。しかし「生ける屍」であるというこの体験はさらにもっと他の理由で一層深くなるのである。すなわち次第に収容所に留められる期間の無限性が感じられると共に、また空間の制限が、すなわち閉じこめられているということが感じられてくるのである。鉄条網の外部に存するものは間もなく近寄り難いものになり、ついには何か非現実的なもののように見えてくるのである。外部での出来事、収容所外の人間、外のすべての正常な生活、これらすべては収容所にいる者には何か亡霊のようなこの世ならぬものに思われてくるのである。囚人が外部の世界を一瞥(いちべつ)できるような時には、彼はそこでの生活をまるで

(以下p175)
死者が「あの世」から世界を見下しているように眺めるのであった。従って囚人は正常な世界に対して次第にあたかもこの「世界」が存在しなくなったかのような感情をもたざるを得なくなるのである。

 強制収容所における内的な生活理想は、人間的に崩壊してしまった人間にとっては過去への回顧的な存在様式になるのであった。なぜならば彼はもはや何の拠り所も未来におけるある目的点に持たないからである。この過去への回顧の傾向については他の所でわれわれはすでに述べた。それは現在とそのすさまじさを補償するのに役立つのである。しかし現在、すなわち周囲の現実の価値低下ということは、道徳的に見ればある危険を内包しているのである。すなわちその時には現実をつくりあげること ―― 多くの英雄的例が示すごとく、収容所生活においてもなおそれは何らかの形で存した ―― の尊重すべき価値が見過ごされやすいからである。囚人の仮りの存在様式に相応じている現実の完全な価値低下は、囚人に自らを放棄し低下せしめるようにいざなうのである。―― なぜならばいずれにせよ「すべては目的がない」からである。かかる人々は、著しく困難な外的状況こそ人間に内面的に自らを超えて成長する機会を与えるものだということを忘れているのである。収容所生活の外的な困難さを内的な試練の試みに変える代りに、彼等は現在の存在を真面目に受けとらず、それをある重要でないものに貶しめ、過去の生活に想いを寄せることによって現在の前では目を閉じるのが最もよいと考えるのである。囚人として過ごす時間の言語に絶する多くの艱難の下で、ある倫理的な高みに飛躍することなくして、…… 原則

(以下p176)
としてしようと思えばできたことだが……かかる人間の生活は次第に埋れて行ってしまうのであった。もちろんかかる高い飛翔は少数の人間にのみ可能であった。しかし彼等はその外面的な挫折や、また死においてさえも、以前の日常生活で恐らく決して到達したことのないであろう人間的偉大に達することができたのである。一方その他のわれわれ微温的な中等程度の者にとってはビスマルクの警句があてはまった。すなわちビスマルクはかつて「人生とは歯医者にかかっているようなものだ。すなわちこれからが本ものになると思っている間にもうすんでしまうのだ。」と言った。それを少し変化させてこういえるであろう。すなわち強制収容所にいる多くの人間は価値を実現化する真の可能性はまだ先であると考えたのである。―― しかし実際はこの可能性は収容所のこの生活から生じるものの中にあったのである。―― すなわち多くの囚人の如く貧しい生存をするか、あるいは少数の稀な人々の如く内的な勝利かである。

(以下p177)
【◎第八章 絶望との闘い】
 収容所生活が囚人にもたらした精神病理学的現象を心理療法や精神衛生の見地から治療しようとする すべての試みにおいて、収容所の中の人間に、ふたたび未来や未来の目的に目を向けさせることが内的 に一層効果をもつことが指摘されているのである。また本能的に若干の囚人は自らにこの試みを行ったのであった。彼等はおおむね何か拠り所にするものを持ち、また一片の未来を問題としていた。人間は本来ただ未来の視点からのみ、すなわち何らかの形で「永遠の相の下に」存在し得るということは人間 に固有なことなのである。従って彼は彼の存在の最も困難な瞬間にこの未来の視点へ逃避することも一 方では多いのである。これはしばしばあるトリックの形で行われる。私自身に関しても次のような体験 を想い出すのである。すなわち破れ靴の中で泥だらけになっている傷ついた足の痛みに殆んど泣きながら、私はひどい寒さと氷のような向い風の中を長い縦列をなして収容所から数キロ離れた労働場までよろめいて行った。私の心は絶え間なくわれわれの哀れな収容所生活の無数の小さな問題にかかずらって

(以下p178)
いた。今晩の食事には何が与えられるだろうか? おそらく追加として与えられるであろう一片のソーセージをパンの一片と取りかえた方がよいだろうか? 二週間前私に報償として「特給」された最後の 煙草をスープ一杯と取引きすべきだろうか? どうして切れてしまった靴紐の代りに鉄条網の切端をみつけるべきか? 労働場で自分がよく慣れた労働グループにうまく入れるだろうか、それとも他のグループに入れられて、怒りっぽい苦しめる監督の下で殴られるだろうか? また収容所労働者として収容所の中で働き、もはや毎日この恐ろしい行進をしなくてもすむ ―― といったあてもない幸福を実現するために、あるカポーとよい関係になるにはどうしたらよいのだろうか?

 私のあらゆる思考が毎日毎時苦しめられざるを得ないこの残酷な強迫に対する嫌悪の念に私はもう耐えられなくなった。そこで私は一つのトリックを用いるのであった。突然私自身は明るく照らされた美しくて暖い大きな講演会場の演壇に立っていた。私の前にはゆったりとしたクッション の椅子に興味深く耳を傾けている聴衆がいた。……そして私は語り、強制収容所の心理学についてある講演をしたのだ った。そして私をかくも苦しめ抑圧するすべてのものは客観化され、科学性のより高い見地から見られ 描かれるのであった。――このトリックでもって私は自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の上に置くことができ、またあたかもそれがすでに過去のことであるかのようにみることが可能になり、また苦悩する私自身を心理学的、科学的探究の対象であるかのように見ることができたのである。スピノ

(以下p179)
ザはそのエチカの中で次のように言っている。「苦悩という情緒はわれわれがそれに関して明晰判明な表象をつくるや否や消失してしまうのである。」(エチカ、五ノ三、「精神の力あるいは人間の自由について」)

 これに対して一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。このことは一種の危機の形でしばしばかなり急激に起きることもあった。そしてその危機の現われ 方はかなり経験のある囚人にはよく知られていた。われわれ各自はこの危険が始めて現われる時を 自分自身に対してよりもむしろ友のために――恐れるのであった。通常これは次のような形で始まった。 その当の囚人はある日バラックに寝たままで横たわり、衣類を着替えたり手洗いに行ったり点呼場に行ったりするために動こうとはしなくなるのである。何をしても彼には役立たない。何ものも彼をおどかすことはできない――懇願しても威嚇しても殴打してもすべては無駄である。彼はまだそこに横たわり、殆んど身動きもしないのである。そしてこの危機を起したのが病気であれば、彼は病舎に運んで行かれるのを拒絶するのであり、あるいは何かして貰うのを拒絶するのである。彼は自己を放棄したのである! 彼自身の糞尿にまみれて彼はそこに横たわり、もはや何ものも彼をわずらわすことはないのである。

●5月24日(日)午前9時半開始、はここから。
(以下p180)
 このやがて死んでしまう自己放棄及び自己崩壊と、他方未来体験の喪失との間にどんなに本質的な連関が存するかが、私の目の前で一度劇的に演ぜられたことがあった。

 私の所の囚人代表は――かなり知られていた外国の作曲家及び脚本家であったが――ある日私にそっと秘密を打ち明けた。「ねえ、ドクター、私は君に話したいことがある。最近奇妙な夢を見たのだ。ある声が聞えて私に何でも望んでよい と言ったのだ……つまり知りたいことを何でもいえば、その声はそれに答えてくれるというのだ。ところで私が何を訊いたかと思うね、私は私にとって戦争がいつ終るかを知りたかったのだ。ドクター。私にとってという意味が判るかね、つまりわれわれがいつ収容所から解放されるだろうか、従っていっわれわれの苦悩が止むのかということを知りたかったのだ。」

 彼はいつその夢を見たのかと私は尋ねた。「1945年の2月だ。」と彼は答えた。(当時は3月の始めだった。) そして夢の声は君に何と答えたのか、と私はさらに尋ねた。小さな声で彼は私に囁いた。「3月30日……」[霜山訳で「5月」と誤訳されているので訂正した]

 この仲間Fが彼の夢について私に語った時、彼はまだ希望に満ちており、彼の夢の声の言ったことは 正しいであろうと確信していた。一方その声によって予言された期限はどんどん近づいてきた――そして軍事情勢について収容所に入ってくる情報によれば、戦線が実際五月の中にわれわれを解放してくれる可能性はますます少くなっていくようであった。すると次の事が起った。3月29日にFは突然高熱を出して発病した。そして3月30日――すなわち予言に従えば戦争と苦悩が「彼にとって」終る日に

(以下p181)
―― Fはひどい譫妄(せんもう)状態に陥り始め、そして終に意識を失った。……3月31日に彼は死んだ。彼は発疹(ほっしん)チブスで死んだのである。

 勇気と落胆、希望と失望というような人間の心情の状態と、他方では有機体の抵抗力との間にどんなに緊密な連関があるかを知っている人は、失望と落胆へ急激に沈むことがどんなに致命的な効果を持ち得るかということを知っている。私の仲間のFは期待していた解放の時が当らなかったことについての深刻な失望がすでに潜伏していた発疹チブスに対する彼の身体の抵抗力を急激に低下せしめたことによって死んだのである。彼の未来への信仰と意志は弛緩し、彼の肉体は疾(しっ)患(かん)にたおれたのであった。……かくして結局彼の夢は正しかったのである。

 この一例の観察とそれから出てくる結論とはかつてわれわれの収容所の医長が私に注意してくれた次の事実と合致するのである。すなわち1944年のクリスマスと1945年の新年との間にわれわれは収容所では未だかつてなかった程の大量の死亡者が出ているのである。彼の見解によれば、それは苛酷な労働条件によっても、また悪化した栄養状態によっても、また悪天候や新たに現われた伝染疾患によっても説明され得るものではなく、むしろこの大量死亡の原因は単に囚人の多数がクリスマスには家に帰れるだろうという、世間で行われる素朴な希望に身を委せた事実の中に求められるのである。クリスマスが近づいてくるのに収容所の通報は何ら明るい記事を載せないので、一般的な失望や落胆が囚人を

(以下p182)
打ち負かしたのであり、囚人の抵抗力へのその危険な影響は当時のこの大量死亡の中にも示されているのである。

 既述の如く強制収容所における人間を内的に緊張せしめようとするには、先ず未来のある目的に向って緊張せしめることを前提とするのである。囚人に対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくニーチェの「何故生きるかを知っている者は、殆んどあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。」という言葉が最も適切であろう。すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい「如何に」(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねばならないのである。

 反対に何の生活目標をももはや眼前に見ず、何の生活内容ももたず、その生活において何の目的も認めない人は哀れである。彼の存在の意味は彼から消えてしまうのである。そして同時に頑張り通す何らの意義もなくなってしまうのである。

 このようにして全く拠り所を失った人々はやがて倒れて行くのである。あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼等の典型的な口のきき方は、普通次のようであった。「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」これに対して人は如何に答えるべきであろうか。

(以下p183)
 ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。
哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。

 すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。

 人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果すこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

 この日々の要求と存在の意味とは人毎に変るし、また瞬間毎に変化するのである。従って人生の生活の意味は決して一般的に述べられないし、この意味についての問いは一般的には答えられないのである。ここで意味される人生は決して漠然としたものではなく、常にある具体的なものである。各人にとって唯一つで一回的である人間の運命は、この具体性を伴っているのである。如何なる人間、如何なる運命も他のそれと比較され得ないのである。如何なる状況も繰り返されないのである。そしてその状況ごとに人間は異なった行動へと呼びかけられているのである。彼の具体的な状況はある場合には彼から積極

(以下p184)
的に運命を形成する創造的活動を求め、ある時には体験しつつ(享受しつつ)ある価値可能性を実現化することを求め、また時には運命を――既述のように「彼の十字架」として――率直に自らに担うことを要求するのである。しかしどの状況もその一回性と唯一性とによって特徴づけられているのであり、それは具体的な状況の中に含まれているのである。

 ところで具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩の中にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならないのである。人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人一回だけ立っているという意識にまで達せねばならないのである。何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。何人も彼の代りに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。まさにその運命に当った彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。

 強制収容所にいるわれわれにとってはそれは決して現実離れのした思弁ではなかった。かかる考えはわれわれを救うことのできる唯一の考えであったのである! 何故ならばこの考えこそ生命が助かる何の機会もないような時に、われわれを絶望せしめない唯一の思想であったからである。素朴に考えられるような人生の意味といった問題からわれわれは遠く離れていたのであり、創造的な活動がある目的を実現するなどということは思いも及ばなかったからである。われわれにとって問題なのは死を含んだ生

(以下p185)
活の意義であり、生命の意味のみならず苦悩と死のそれとを含む全体的な生命の意義であったのである。

 苦悩の意味が明らかになった以上、われわれは収容所生活における多くの苦悩を単に「抑圧」したり、あるいは安易な、または不自然なオプティミズムでごまかしたりすることで柔らげるのを拒否するのである。われわれにとって苦悩も一つの課題となったのであり、その意味性に対してわれわれはもはや目を閉じようとは思わないのである。苦悩もわれわれの業績であるという性質をもっているのであり、それこそリルケをして「苦悩の極みによって如何に昻(たか)められし」とうたわせたものなのである。

 全くわれわれにとって苦悩し抜くこと、「苦悩の極みによって昻められ」うることは充分あったのである。従って必要なのはそれをいわば直視することであった。もちろんそこには「気が弱く」なる危険や、秘かに涙を流したりすることもあるであろう。しかし彼はこの涙を恥じる必要はないのである。むしろそれは彼が苦悩への勇気という偉大な勇気をもっていることを保証しているのである。しかしそのことを知る人は少く、多くの人は恥じながら彼が何度も泣き抜いたことを告白するのである。……私がかつて、どうして彼の飢餓浮腫が癒ったかを聞いたある友は、比喩的に次のように云った。「私がそれに泣き抜いたからです。」

 強制収容所における心理治療や精神衛生の試みの萠芽は、それが可能であれば個人的にもでき、また グループでもできた。個人的な心理治療的な試みについて云えば、それはしばしば緊急な、生命を救う
(以上p185)

「処置」を必要とした。

2020年05月15日