エピクテトスの言葉を読む(テキスト)

【Zoom講座】エピクテトス      令和2年7月11日(土)
      天正寺 佐々木奘堂

◎エピクテトス(Epictetus)[西暦55 – 136年頃]
 『人生談義』(岩波文庫、上下の2冊。鹿野治助訳)[絶版で入手しづらい]
 『エピクテトス 語録 要録』(中公クラシックス、鹿野治助訳)[抄訳]
 以上の2冊の他に、数点の邦訳あり。英訳も3点入手した。
 これらとギリシャ語原文(英語対訳本)を参考にして、大事と思われる箇所を
佐々木奘堂が試訳した。[]内は、佐々木の説明・補足等。

・1巻6章:
君たちはみんな、「フィディアスの作品[金と象牙でできた巨大なゼウス像]を見ないで死ぬとしたら、なんて災難(άτύχημα)だ」と言って、それを見るためにオリンピアまで旅をする。
だが、ゼウスが現にここにいて、しかも諸作品にあらわれているのならば、わざわざ旅をする必要がないのではないか?
君たちは、ゼウスのこれらの作品を、見たり理解したりしたいと思わないのか?[君たち自身が、ゼウスの作品なんだよ。] 君たちは、自分が何者であるか、何のために生まれてきたのか、何のために見る力が備わっているのか、これらを知りたいとは思わないのか?

「でも人生には、不快なことや、困難なことが起こります。」
それでは、[不快なことや困難は]オリンピアでは起こらないのかい? 汗だくにならないか? 雑踏で狭苦しい思いをしないか? 入浴の際に不快な思いをしないか? 雨に降られてずぶ濡れになることはないか? 喧噪や騒動や、その他にもイヤになることはないか? 

だが、私が思うに、「これほど素晴らしいものを見ることができるのだったら」と、それらの不快なことをすべてしんぼうするのではないか? 
そうだ、どのようなことが起ころうとも、それを受け入れ、耐える力を君たちは授かっているではないか。大いなる心(μεγαλοψυχία:元の意味は「大きい息・心・魂」、気高さ、寛大さ、矜持などと訳されている)、勇気(άνδρεία)、忍耐力(καρτερια)を授かっているではないか。

もし私が大いなる心を授かっているのならば、いかなることが起ころうとも、それに煩わされるだろうか? 何が私を混乱させたり、不安にさせたりするだろうか? あるいは何が苦痛になるだろうか?

私は授かった能力を、目的に適うように使用しないままでいながら、起こる出来事に対して、悲しんだり嘆いたりしていてよいのだろうか?

「ですが、鼻水が垂れてきたりします。」
君の手は何のためにあるのだ? 手で洟(はな)をかめるではないか。
「すると、この世で鼻水が垂れるということは、道理に適ったことなのですか?」
そのようにぶつぶつ[不平や理屈を]言っているよりも、洟が出たなら、すぐに洟をかんだらよいではないか。
もしヘラクレス[ギリシャ神話での英雄]が、ライオンやヒュドラ[ギリシャ神話に登場する怪物]、牡鹿、猪、それから非道で邪悪な人間たちがおらず、それを退治し、打ち払うことがなかったとしたら、果たしてどれだけのものになっていただろう。これらの困難が何もなかったとしたら、彼はどうしただろうか。毛布にくるまって眠っていただろうか。
もし贅沢で安逸に一生を眠るように過ごしていたのだったら、そもそもヘラクレスになっていなかっただろうし、たとえヘラクレスになったとしても何の役にも立たなかっただろう。
あのような困難な環境が、彼を揺り動かし彼を鍛えたのでなかったなら、彼の腕力も、元気も、忍耐も、気高さも、何の役にも立たなかっただろう。[ヘラクレスは、困難や苦境の真っただ中で、必死に戦い、乗り越える努力をし続けることで、ヘラクレスたりえたのだ。君たちも同じではないか。](中略)

君たちもこれらのことに気づいたのなら、君自身のもっている能力に目を向け、[どのような力があるのか]よく見てみたらよい。そして次のように言うがよい。
「おおゼウスよ。あなたの欲するままに、試練をお与えください。なぜなら私は、あなたから授かった素質もありますし、起こる出来事の中で、それに打ち勝っていく能力もあるからです。」
ところが君たちは、そうはしないで、何か悪いことが起こりはしないかと恐れて震えたり、あるいは起こった出来事を嘆いたり悲しんだりうめいたりして坐っている。さらには神を非難さえしている。卑しい心のせいでこのような結果になっていることが、まさに「不敬虔」そのものではないか。

だが神は、どのようなことが起こっても、それに打ち負かされダメになってしまうのでなく、すべてを耐えて乗り越えていく力を私たちに授けてくださったのだ。それだけでなく神は、名君や慈悲深い父親のように、それらを支障も強制も妨げもなしに、私たちの権内のもの[私たちが自分で行使できる力]として与えてくださり、何の保留もしなかったのだ。
これらを自由に使える力を受けているにもかかわらず、君たちはそれを使用しない。何を授かったか、誰から授かったかさえ気づかないまま、その力が見えないままでいて、恩恵を与えられていることさえ知らずにいる。心が卑しいために、神に対して、不平や非難を向けたりしている。

ともかく、君たちが、大いなる心と勇気に関して、素質と能力を授かっていることを私は君たちに示そう。不平や批判に関しての素質を授かっていると、君たちがもし言うのだったら、それを示してくれたまえ。

・2巻8章:
君は素晴らしいものであり、神の一部だ。君の中に神の一部分をもっているのだ。
 君はなぜ君の血統が尊い[神の子孫である]ことを忘れているのか。自分が由来している根源を知らないのか[君の根源は神なのだ]。

 君は、食べる時、食べているのが誰であるのか、誰を養っているのかを知らないでいるのか。君が人々と交際したり、運動したりしている時、君は神を養い、神を修練していると気づかないのか。

 不幸な者よ、君は常に神と共にありながら、それを知らないでいるのだ。
 金や銀でできている外側にある神のことを私が話していると思っているのか? そうではない、君は君自身の内に神をもっている、そして不潔な考えや汚れた行ないによって、神に侮辱を与えていることを知らないでいるのだ。
 神の像が目の前にある時ですら、君は、普段行っているような行為を慎むであろう。だが、神は、君自身の内部に現に存在していて、[君の行なう]すべてを見たり聞いたりしているというのに、君はそのような考えや行動を恥ずかしいと思わないでいる。ああ、自分の本性を知らず、神の怒りを被る者よ。

 若者が学校を卒業し、実社会へ出る時、彼が何か間違ったことをしでかさないか、不節制な食事をしないだろうか、女性関係を過ちを犯さないだろうか、ボロの服を着て卑屈になりはしないだろうか、着飾った服を着て高慢になりはしないだろうかなどと、いろいろ心配するのはなぜだろうか? このようなことに陥る若者は、神[をもっていること]を知らず、誰と共に世を渡っているかを知らないのである。
 だが、その若者が、「私はあなた[神]と共にありたいのです」と言ったとしたら、それを聞くに堪えられようか。
君は神をもっているではないか? 神を自分の内にもっていながら、外に探し求めようとするのか? あるいは神が何か他のことを告げようとしているというのか。

 もしも君が、フィディアスの作った彫刻――アテナ、あるいはゼウス――であるならば、君は自分自身と自身を作った製作者との両方を心に留めるであろう。君が意識(認識力)をもっているのならば、君を作った製作者や君自身を辱めるようなことをしないように努めるであろうし、ふさわしくない姿で人前に現れないよう努めるであろう。
 だが、現にゼウスが君を作ったというのに、君はどのような姿であるかということを少しも気にかけないのか?
 君を作った作者[神]は、彫刻の作者と同じなのだろうか。神が作ったもの(君自身)と、彫刻家が作ったもの[彫刻作品]は同じなのだろうか。[この間には雲泥の差があるのではないか?]
 例えばどのような製作物が、その制作を通して発揮された力を、その作物の中に有しているであろうか? それは単に大理石、青銅、金、象牙に過ぎないのではないか?
 
 フィディアスの作ったアテナ像は、ひとたびその手をのばして、その上に勝利の女神ニケを載せたら、永久にその同じ姿のまま立っているだけではないか。
 だが、神の作品[君自身]は、動くことができる。命の息をしている。そして心を用いてはたらき、それを判断吟味することもできる。
 君は、この製作者の作品であるというのに、君はこの作者(神)を侮辱するのか?
 さらに神は君を作っただけでなく、ただ君自身を信頼して、君自身を託したのだ。君はそれを忘れて、この信頼を侮辱するのか? もし神が君に孤児を託したとするならば、君はそれをおろそかにするだろうか?
 神は君に君自身を託し、次のように告げているのだ。「君以上に信頼して任せられる人は他にいない。(ούκ εΐχον άλλον πιστότερόν σου)どうかこの人(君自身)を自然が与えた本来具足のものを発揮するよう、謙虚で、誠実で、気高く、ゆるがず、情念にながされず、平静であるように保ってくれたまえ」と。それなのに君は自分でこれに背いている。


・4巻12章:
 「私は何に注意したらよいのでしょうか?」
 まず次の普遍原理に注意すべきだ。それを常に用意し(覚悟し)、眠るにも、起きるにも、食うにも、人と交際するにも、これを離れないようにすることだ。その原則とは、「[自分以外の]誰も自分の意志の主人ではなく、善悪はこの意志にのみ存する」ということである。

 そうだとすると、誰も、私に善を与えてくれたり、悪に陥れたりする権威をもたないのであって、私自身だけが、これらについて私自身に権威をもっている。このことが確固たるものであるならば、外界の物事で私が悩まされたりすることがあろうか。いかなる暴君、いかなる病気、いかなる貧困、いかなる攻撃を恐れようか。
(中略)
 神は私を私自身に信託した。そして私の意志を私自身だけの自由にさせた。


・1巻1章:
私は死なねばならない。もし「今すぐに」というであるのなら、すぐに死のう。もう少し経ってからというのなら、今まず食事をしよう、そしてそれから死のう。
「どのようにですか?」
人から拝借した[大切な]ものをお返しする際にふさわしいような仕方で(ώσ προσήκει τόν τά άλλότρια άποδιδόντα)。


・4巻10章:
 「あなたが私を生んで下さったことに、私は感謝しています。あなたが与えて下さったものにも、私は感謝しています。これほど長い間あなたのものを使用して、私は満足しています。またそれらをお収め下さい。そして好きな処へお置き下さい。すべては[元々]あなたのもので、あなたはそれを私に[お貸しして]下さったのですから。」
 このような気持でこの世から去ることで満足ではないか。そして生活の中でどんな生活がこのような気持の人よりもよりすぐれており、より立派であるだろうか。どんな終りがもっと幸福であるだろうか。


・3巻24章:
 君が欲した時に君が生れたのではなく、宇宙が必要とした時に生れたのだ。
 だから知徳兼備の人は、…どうすれば自分の位置を秩序よく、そして神に忠実に満たすことができるか、このことだけを目的としているのだ。
 「あなた(神)はまだ私が存在することを欲しますか。私はあなたが欲したように、自由に、高貴に存在するでしょう。というのはあなたは私を、私のものにおいて妨げられないようにつくったからです。しかしあなたはもう私を必要しないのですか。よろしゅうございます。私は今まで、あなたのためにとどまっていました、他の何人のためでもありません、それで今も私はあなたに従って去ります。」
 「どのようにして君は去るか。」
 「またあなたが望まれるように。(πάλιν ώσ σύ ήθέλησασ)」



●第二巻 十九章 「真の信念と借りたる信念とに就いて」
『世界大思想全集3』(春秋社、昭和2年)から。佐久間政一訳。
(他に数名の訳も後に引用)

一、
 主要議論は次の如き諸命題から出発するように思われる。それは
(一) 過去の事柄はいずれも必然的に真である。
(二) 不可能事は可能事につづくことは出来ない。
(三) 現在真ではなく未来も真ではないであろうような事物は、 あり得るものだ、
と云う三個の命題であって、その間には相互的矛盾が在る。
(註)主要議論と云うものは、それの取扱う問題が、甚だ重要だからであって、ストア派の学徒はこれらの議論を、いろいろに解釈した。例えばダイオドラスは、過去及び未来の事物を「必然」だと考え、クリアンジーズはこの両者を「偶然」だと説き、クリシパスは過去の事物を「必然」、未来の事物を「偶然」だと考えた。三個の命題のうち、いずれの二個も第三の命題を排除するのである。――英訳者の註によりて。
 しかるにダイオドラスはこの矛盾を認めて、初めの二命題を使用し、第三のもの、即ち現に真実ならず、将来もまた真実ではないような事物の可能なることを論駁して、そのあり得ざることを立証しようとした。また或ものは第三の命題と第二の命題――即ち不可能なる事は、可能なる事に継いで起ることなしと云う命題――とを用うるけれど、第一の命題即ち過去の事物はいずれも、必然的に真実だという事は、決して無いと論ずるのである。クリアンジーズ派の人々は、かくの如く考えて居るように思われる。アンティパータアはこの人々を非常に弁護した。然しまた或人々は、第三のものと第一のものとを支持するけれど、また不可能なる事物は、可能なる事物に継起するという第二の命題をも主張する。さりながらこの三者を、同時に保持するのは、不可能である。これ蓋し三者は本来相互に矛盾するものだからである。

二、
そこで今誰かが、『これらの命題のうち、いずれをおんみは採るか?』と私に訊ねるなら、私はこう答えるであろう。『私は知らない。しかしダイオドラスは、そのうちの或ものを主張すると聞いた。私はまた、パンゾイデスやクリアンジーズの弟子たちが、それとは別な命題を採り、クリシパスの門下はまたそれらとは異なつた命題を主張すると考える』と。
(そうするとその人は更に訊ねるであろう?)『おんみ自らの考えは』。わたしは答えて曰う。 『否、私自身の思想を試験し、諸々の議論を比較し、評価し、またこの事柄について自説を作るのは、私のなすべき事ではない。』
(註) これらのことは、実は思索する人々の当然なすべきことであるから、エピクテータスは勿論アイロニカリーに述べているのである。――英訳者の註によって。
 それ故私は文法学者と何等の異なるところもない。ヘクタアの父は誰であつたか? 「ブライアムである。… ヘラニカスも彼等に就いて書いたと思う。なおその他にもあるだろう。」
 さて私は、主要議論について、もっとよりよき事を云うべく持って居るだろうか?
 然し若し私が虚栄ずきな人間であるなら、特に宴会などでは、この事について述作した人々の説を列挙して、並居る人々をおどろかすであろう。…「おんみはまだ此を読まないのか? 読まなければ読んで見よ!」
 然しこれを読んだところで、その人にどんな益があろうか? 彼は今よりもより饒舌な人となり、より厄介なものとなるだけであろう。
何となれば、おんみ自身それを読んで、他にどんな益があつたか。この事柄についておんみは独りで、どんな意見を樹立したか?[そうしようとすることがそもそも不可能だし不要ではないか] 何等の意見も立てられなかった。[この2文は原文にあるのかな?]
ただおんみはヘレンやプライアムについて、また決して存在したこともなく、将来に存在することもないところのカリプソの島に就いて、われらすべてに物語り得るにすぎないであらう。
(註) これらの本を読んだところで、どんな道義上の見解も得られるものではない。丁度文法学者が、ホーマーを読んで、それから得た歴史的の記憶事件を他に伝達し得るだけであると同様に、おんみもまたそのなかに現われた歴史的の事項を知り、これを他に伝達し得るだけであろうの意――独訳者の註によりて。

三、
而してホーマーを読んで、おんみは単にその事件に通暁するだけで、おんみ自身の意見をつくらなかったとても、それは実際大したことではない。(独訳者によれば、「実際驚くには足りぬ事だ」。)
 しかしこの事は、倫理に関する方面において、他の事柄よりも遙かに度数多く見られる事柄である。

善と悪とに就いて私に語れ! と云うのか。…
 『事物のうち或ものは善で、或ものは悪であり、その他のものは、普でもなく悪でもない。さて善いものは、徳および徳の性質を有するものであり、悪いものは不徳及び不徳の性質を具有するものである。そして善でもなく悪でもないものは、財産・健康・生命・死・快楽・苦痛の如く、善と悪との中間に存するのである。』 
 どうしておんみはそれを知って居るか?[誰から聞いたか、読んだか、などの問題に執らわれているのは無意味ではないか?] …何となれば、ダイオヂェニーズがそれをその著『倫理学』のなかで説こうと、クリシパスが述べようと、或はまたクリアンジーズが教えようと、それは同じことではないか。
しかしおんみは彼等の言葉の或ものを検覈[けんかく。調べること]して、おんみ自ら意見を立てたか、どうか?[そんなことをする必要があるのか?] おんみが海上で、暴風雨に逢ったとき、如何にそれに堪えるかの方法を、私に見せて呉れ。…[危険の真っただ中にあるのに、人が抽象的な議論をしかけてきた例]… 
おんみはこの時杖を執って、それを彼の顔前で振り、『われわれに構わないで呉れ。 おれ達は死にかけて居るのだ。お前はわれわれをからかいに来たのだな!』と言わないであろうか? …
 ――『さりながら哲人よ、何故におんみは戦慄するのか、その訳を私に話して呉れ。――おんみが危険に瀕して居るというのは、単に死ではないか、或は幽閉ではないか、或は肉体的の苦痛ではないか、或は追放または汚辱ではないか? その他に何があろう? それが悪徳であろうか、或は悪徳の性質を有する或ものであるか?』
 そしておんみは次のようなことを答えるであろう。『私を構わずに置いて呉れ。私自身の災厄だけで、私にとっては沢山である』と。
 まことにおんみの言うところは正しい。何となればおんみ自身の災厄は、おんみに取って充分であるから。―― その災厄とは、卑劣性であり、臆病であり、またおんみが哲学の講堂に坐した時のおんみの偽りの誇揚である。
 おんみは何が故に、他人の光栄でもって自らを飾るか? 何が故におんみは自らをストア学徒と云うのであるか? 

四、
おんみたちは自らの為しつつある事について、自らを注意して見るならば、おんみ達は自らが孰(いず)れの学派に属するかが分るであろう。おんみ達の最も多くはエピキュラス派のもので(エピキュラスは西暦前340-270年の人で、所謂快楽論者である――訳者註)、僅少のものがペリパテティック派(アリストートルの学派)に属して居り、然もこれらの人々すら、可なり緊張せざるものであることを見出すであろう。何となれば、おんみたちが徳を以て他のあらゆるものに匹敵し、或は実際それ以上の価値あるものだと考える証拠がどこにあるか? 若しおんみたちのうちにストア学徒があるなら、示して呉れ。どこに、而して如何にしておんみたちはそれを持ち得るか? しかしストア派の文句を繰り返えすだけの人ならば、おんみたちはそのいくたりかを示すことが出来る。彼等はまたエピキュラスの学説をも同じように良く繰返えすことが出来ないか? そしてまたペリパテティックの学説においても、同様に正確に述べないであろうか。そこで真のストア派の学徒とは、一体誰であるか?
 われらが、フィヂィアスの芸術に則って制作された彫像をフィヂィアス派と云うように、自分自身の唱導せる学説に則って作り出された人を、私に見せて呉れ! 病でも幸いであり、危難に臨んでも幸であり、死に瀕しても、追放されても、悪評を受けても幸であるような人を、私に見せて呉れ! かかる人を私に示してもらいたい! 本当に! 私はストア学徒に会いたいのである! 
若しまたおんみたちにして十分に仕上げたものを持たないなら、少くとも制作中のもの――即ちこれらの事柄に傾いて居る人を示せ! 私にこの恩恵を与えよ! この老人が未だ嘗て見なかったものを、今見せ吝(おし)んでは呉れるな! 
おんみたちは私が、すっかり象牙や金で出来て居るフィヂィアス作のアゼィーネの神や、ジェウス神の像を見せてもらいたがって居るのだと考えるのか? 否、然しどうぞ、神と同じ心であることを冀(こいねが)い、神をも人をも責むることなく、努力や忌避において失敗することなく、忿怒もせず、嫉妬もせず、また羨望もしないことを望む心を――私は何故にこう廻り遠く云わなければならないのか? 人間から神になろうと願う人の心を――われらのこの肉体は、この死せる身体のうちに居て、自らが神と同胞なることを認識する人の心を、私に示して呉れ! そう云う人を見せてもらいたいのである! 
しかしそれは、おんみたちのなし得るところではない! 然らば何が故におんみたちは、自らを嘲(あざけ)り、他人を欺こうとするのか? 何故におんみらは、他人の衣をつけて、かの浴場から衣服を窃取する泥棒のように、決しておんみの所有ならざる名称や事物を携えて、歩き廻わるのであるか?(何故におんみたちは他人の衣をつけて、おんみ自身に属せざる名称および事物の窃盗及び強盗として歩き廻るのであるか――独訳)

五、
而して今私はおんみたちの教師であり、おんみたちは私の教を受けて居る。私はおんみらが妨げられ・強いられ・煩わされることなく、自由に・繁栄に、幸編に・そして一切の大小事項に於て神のみを顧みるように、おんみたちを作り上げると云う目的を持って居る。おんみらはこれらの事を学び、またそれを行うべくここに居るのである。
 而しておんみらは自己に適当する目的を有し、私はまたこの目的の外に、私に適当する能力を持って居るとすれば、何故におんみらは、その仕事を完成しないのか? この場合、欠如せるものは何であるか? 私が大工とその側に横われる材木とを見るときは、私は或制作を待ち設ける。然るに今ここには大工あり、ここに木材がある。それで今何が欠如して居るか? 
 かかる事は教えられ得ないものであるか? いや教えられ得るものである。しからばそれはわれらの力の及ばざるところのものであるか? 否、世間の万事のうちで、これだけがわれらの力の左右し得べきものである。ただ表象の正常な使用だけを除いては、財産も、健康も、名声も、又は他の何物も、われらの力の左右し得るものではない。表象の正しい使用のみは、その性質上、他の妨げ得るものではない。これのみは煩わされるものである。然らば何が故に、おんみたちは完成の域に入らないのか。この理由を私に告げよ! … しかし事柄それ自身は、成し遂げられ得るものであって、実にわれらの力の支配し得る唯一のものである。…
 しからばおんみ等は、どうしようと欲するか? 結局われらは、われらの間にかかる目的を抱くべく始めようではないか。而して過去たらしめよ。ただわれらは始めよう。私を信頼せよ。さすればおんみたちは(結果が)解るであろう。


◎中島祐神訳『我等は如何にして自己を救ふ可きか』(早稲田大学出版部、大正10年)
 もし誰かが私に向って此等の命題のどちらを支持するかと聞くならば、私は知らぬと答えよう。然し聞く所に拠れば、ディオドロスは一説を、又パントイデースの門下等(私はそう思うのだが)とクレアンテースとは他説を、クリシッポスは第三説を支持したと云う事である。
 『ではおまえの意見は?』
 何もない、私は自分に映じた外物の表象を吟味する為に生れたのではない、他人の意見を比較したり、それから君の云う小論件に就いて自分自身の意見を立てる為に生れたのでもない。それ故私は(自分が読んだ事を繰り返す所の)文法家と選ぶ所がない。

 『それでは読め。』 それによって我々はどれだけの利益を受けるであろうか。現在よりも一層詰らない無遠慮な人間になるであろう。何故なら、それを読んで外に何の得る所があったか。何もない。唯だ、ヘレンやプリアムや、過去に存せざる又将来にも存せざるカリプソ島の事を知るだけである。そして実際こう云う事柄に於ては、君が其の物語を覚えていながら自分自身の意見を立てなかったとて大した問題でない。

 何故君は自己の所有にあらざるもの(他人の言説を借りて)を以て自己を装飾したか。何故ストア学徒と自称したか。
 斯くの如く自己の行動に照して自己を考察せよ、然らば自分がどの派に属するかが判るのだ。君等は大概エピクーロス派で、…。

 然し君はできない、然らば君は何故自己を欺き他人を欺くか。して何故他人の衣を着(つ)け、それを纏うて、自己の所有ではない所のこう云う名称や事物を盗用して歩き廻るか。

 そこで、結局我々がこう云う目的を此の学校へ導入しようではないか。我々をして過去の一切を擲却せしめよ、唯だ第一歩より始めしめよ、私を信ぜよ、然らば結果は現れるであろう。


◎高橋五郎訳『エピクテタス遺訓』(玄黄社、大正元年)
 今若し人ありて、我に汝は此中孰れの見を持すやと言うならば、我は彼に答えて言わんとす、我は知らず、只ヂオドラスは其中の若干を持すとの話を聞けるのみ、意うにパントイデスとクレアンテスの弟子達は他の若干を持し、クリシッパスの弟子達は猶他の若干を把らん。而して汝はと問われんも、我は己の思想を吟味し、衆説を比較軽重し、自己の説を本件に立つるは、我の事に非ず。斯く我が為す所は毫も文法家と異なる所あらず、…

 然らば之を読め、之を読む事、其人に何の益をか為すべき。彼は今よりも一層饒舌となり、邪魔物とならん。該著の閲読は此外汝に何等の益をか与えん。如何なる意見をか汝は此の問題に就て立て得んや。否な、汝は只ヘレンやプリアムの事を語り、全然空なるカリプソの島の事を語り得ん而已。

 寔(げ)に汝善く言えり、汝の悪は既に汝に足れり、そは他なし、卑怯なり、怯懦なり、汝が哲学者として立つの妄称なり。汝何ぞ他(ひと)の光栄を以て己が身を飾るや。汝何ぞ自らストイクと称するや。
 汝等は斯く汝等が為す所の事に徴して自己の何たるを視よ、然らば何の学派に属する者なるかを見ん。汝等の最大多数はエピキュラスの徒なるを見ん、…。

 汝は断じて能わず。然らば何ぞ自己を愚弄し、他人を欺罔せんとするや。何が故に汝は他人の衣を纏い、浴堂より衣服を偸(ぬす)める賊の如く、汝に属せざる名や物を附けて歩きまわらんとするや。

 然らば汝等如何せんとするか。我等更に志を立てなん、既往は追わじ、只請う我等再び新たに始めん、我に信頼せよ、然らば汝等は其効果を見ん。


◎稲葉昌丸訳『エピクテタスの教訓』(浩々洞出版、明治40年)
 いま人あり、吾れに対して「爾は此の中孰れを主張するか」と問わんに、吾れ答えていうべし、吾れ之を知らず、されど伝説によると、ヂオドロスは其一を執り、パントイデス及びクリアンテスの徒は他の一を執り、クリッシッポスの徒は又一を執りたりと。云く、爾自己の意見は如何と。否とよ、吾が思想を労して諸立論を比較商量し、此の材料の上に自説を作るは、吾が事にあらず。斯くて吾れは文法家と多く異ならず。

 『されば之を読め。』 而して之を読みて何の所得かあるべき。其人は一層饒舌、厭うべき人となり、他に何の得る所もなかるべきなり。其故は、此題目につき爾は何の自説を作りたるか。あらず、ただヘレンやプリアムやの事を語り、今だ嘗て存在せず将来もなかるべき、カリプソ女神の島につき語るに過ぎざるべきを以てなり。

 爾の災禍は爾に取りて十分なり。災禍とは窄量をいうなり、怯懦をいうなり、又爾の佯(いつわ)りて哲学者なりということなり、爾は何故に他人の光栄を以て自ら飾るか。何故に自ら読んでストア学徒というか。
 爾は自ら其為す所の事に注目せよ。爾が何の学派に属するかを見よ。多くは是れエピキュロス学徒なり、少数の者は…。

 爾は示すを得ざるよ。然れば爾は何故に自ら愚弄し他を欺瞞せんと欲するか。何故に爾は、洗浴場より盗みたる人の如くに、他人の衣服を被り、爾に属せざる名と物とを携えて徘徊するか。

 然れば爾は如何にせんとする。吾人をして遂に斯かる目的を抱かしめよ、而して過去は過去たらしめよ。唯だ夫れ事を始めよ、――吾れに信頼せよ、而して其効果を見るべきなり。

◎参考(ネットからとったエピクテトス名言集)
・『与えられたるものを受けよ。与えられたるものを活かせ。』
・『逆境は、人の真価を証明する、絶好の機会だ。』

・『侮辱は相手のせいではなく、侮辱されたと思い込むせいだ。』
・『人を不安にするのは、物事ではない。物事についての意見だ。』
・『あなたを罵倒したり、殴ったりする人間が、あなたを虐待するのではない。それを恥辱だと考えるあなたの考えが、あなたを虐待するのだとよく考えなさい。』
・『あなたのことを人が悪く言う。それが、真実なら、直せば良い。それが、虚偽ならば、笑えば良い。』

・『哲学とは、自分の幸福が外からの事柄にできるだけ左右されぬように心がけて、生きることである。』
・『幸福への道はただ一つしかない。それは、意志の力でどうにもならない物事は悩んだりしないことである。』
・『自由な意思は、盗人の手の届かない財宝である。』
・『病気は身体の障害であるが、気にしない限り意志の障害にはならない。』

・『自分が不幸なとき、他の人たちを非難するのは無教養者、自分自身を非難するのは教養の初心者、そして他人をも自分をも非難しないのが本当の教養人である。』

・『先ず、自分に問え、次に、自分で行え。』

・『聞き上手は、ひとつの技能である。』
・『神は人間にひとつの舌と、ふたつの耳を与えた。しゃべることの2倍多く聞けということだ。』

・『よい作家になりたいなら、書くことだ。』

・『我々を救ってくれるもの、それは友人の助けそのものというよりは、友人の助けがあるという確信である。』

・『人間の本性には、動物と通い合う肉体と、神々と通い合う理性・英智とが混じり合っている。』
・『この地上で最も程度が低いものは貪欲・快楽欲・大言壮語。最も高いものは寛容・柔和・慈悲心だ。』
・『快楽に抵抗する人は賢者。快楽の奴隷になるのは愚者。』
・『金銭、快楽、名誉を愛する者は、人間を愛せない。』

・『正しき人は、心の状態を最も平静に保つ。不正なる人は、心の状態が極度の混乱に満ちあふれている。』

・『あなたの敵にどうやって復讐すべきだろうか?できる限り多くの善行を行うよう努力しなさい。』
・『容赦は、いかなる復讐にも勝る。』

・『己れ自身を統治しえぬ者は自由にあらず。』

・『順境に友人を見つけることは簡単だが、逆境に友人を見つけることは極めて難しい。』

・『何かを究めたいなら、外には愚かになれ。』

・『人間の良心のみが唯一、あらゆる難攻不落の要塞より安全なよりどころだ。』

2020年07月11日