西田幾多郎『善の研究』から

◎西田幾多郎[1870 - 1945]著 『善の研究』(1911年)から引用します。

 

2019年1月13日の東京での坐禅会で西田の言葉を資料として読みました。

「(思っていたより)わかりやすい言葉だ」との感想が何人かから聞かれました。

以下、『善の研究』から、私が重要だと思う言葉を抜き出しました。



 今もし真の実在を理解し、

天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、

疑いうるだけ疑(うたが)って、

凡ての人工的仮定を去り、

疑うにももはや疑いようのない、

直接の知識を本として出立せねばならぬ。

 善とは自己の発展完成self-realizationであるということができる。

即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である。

竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、

人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。…
 ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。

美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。

理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂である。

それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、

人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。

善は即ち美である。

 個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。

即ち他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮するのである。

個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何に関せず

誰にでもできることである。

いかなる人間でも皆各その顔の異なるように、

他人の模倣のできない一あって二なき特色をもっているのである。

而してこの実現は各人に無上の満足を与え、

また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。
 従来世人はあまり個人的善ということに重きを置いておらぬ。

しかし余は個人の善ということは最も大切なるもので、

凡て他の善の基礎となるであろうと思う。

真に偉人とはその事業の偉大なるが為に偉大なるのではなく、

強大なる個人性を発揮した為である。…
 余は自己の本分を忘れ徒らに他の為に奔走した人よりも、

能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。

しかし余がここに個人的善というのは私利私欲ということとは異なっている。

個人主義と利己主義とは厳しく区別しおかねばならぬ。

利己主義とは自己の快楽を目的とした、

つまり我儘ということである。

個人主義はこれと正反対である。

各人が自己の物質欲を恣にするという事はかえって個人性を没することになる。

 世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。

しかしかくの如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。

宗教は己の生命を離れて存するのではない、

その要求は生命其者の要求である。

かかる問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。

真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる

宗教的要求を感ぜずにはいられないのである。

 我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程

愛は大きくなり深くなる。

 主観は自力である、客観は他力である。

我々が物を知り物を愛すというのは

自力をすてて他力の信心に入る謂である。

人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、

我々は日々に他力信心の上に働いているのである。
 学問も道徳も皆仏陀の光明であり、

宗教という者はこの作用の極致である。

学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、

宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。
 「父よ、もしみこころにかなはばこの杯を我より離したまへ、

されど我が意のままをなすにあらず、

唯みこころのままになしたまへ」とか、

「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、

また地獄におつべき業にてやはんべるらん、

総じてもて存知せざるなり」とかいう語が宗教の極意である。

2019年01月14日