Zoom坐禅会資料(真民、ロラン、沢木等)0412

2020年4月12日のZoom坐禅会で用いた資料です。

・坂村真民の詩
・沢木興道
・ロマン・ロラン
・プラトン



◎横田南嶺老師が引用している坂村真民先生の詩

先生の あの清澄 あの放射 あの芳香
それは どこからくるのであろうか
先生のなかに燃えている火
衆生無辺誓願度
あの火を受け継がねばならぬ

「生きてゆく力がなくなる時」
死のうと思う日はないが
生きてゆく力がなくなることがある
そんな時 お寺を訪ね
わたしはひとり 仏陀の前に坐ってくる
力わき明日を思う心が 出てくるまで
坐ってくる

◎沢木興道老師の言葉
◎観音経講話
 頭の中でこしらえておるものをなくすればよいわけである。仏教というものはこしらえておるものをなくする宗教である。

 内面的にいつも盛り返す力を与えるのが、仏教という宗教である。それがすなわち信仰である。

◎『沢木興道 聞き書き』(酒井得元、講談社学術文庫)
 道元禅師の只管打坐は処世術でも技術でもない、人格の真実である。無常ということは、生きることである。いかにして、真実の生活をするかの努力が仏道者なのである。なにかのまねであったり、つくりものであったりしたならば、そんなものは人間ごとであっても仏道ではない。仏道とは、いろいろな働きをする以前の、もとの自分になることなのである。(166頁)

 自分をとりつくろうことは、わしはできぬようになった。また、自分というものを作ってはならぬと思うようになった。どこまでも作りものを作らないで進んでゆく、その潑剌(溌剌)たる生活こそ真実なものである。(201頁)

 娑婆世界のことは、そのときどきのご都合次第だけのことであるから、猫の眼のように変わるのが当たり前である。真実に生きんとするものは、こちらからその都度これに応ずるには及ばない。次から次へと変わってゆくものを追っかけて一生ふらふらしていたのでは、それこそ一生を空しくしてしまうものである。(263頁)

 坐禅はあたかも、武士が三尺の秋水(しゅうすい)を引き抜いて身構えていると同様に真剣な姿である。これ以上、真剣な姿勢はありえない。どんな人間でも、一ばん尊いのは、その人が真剣になったときの姿である。どんな人間であろうと、ギリギリの真剣な姿には、一指も触れることのできない厳粛なものがある。これがわしの一生を坐禅に供養させるようになった因縁である。
 そして、わしがこれまでいつもあこがれておりながら、どうにも仕方のなかった「道」というものが、そのときはっきりと浮彫(うきぼり)になって、具体的に坐禅という実物となって、わしの前に直接示されたのであった。(67頁)

 わしの一生はあのように袈裟を搭けて、頭を剃って、坐禅する、それでおしまい、ほかにはなにもいらぬ、というところまで行った。(89頁)

◎ロマン・ロランの言葉から
「《永遠なもの》 L'Eternel の種子は、人類のあらゆる畠にゆたかに播かれてある。 ――しかしあらゆる土地が、その種子を発芽させる用意をととのえているわけではない。それは、ここでは育ち実るかと思うと、かしこでは眠っているままである。しかし種子はいたるところに在る。そして眠っていたものが目ざめる一方では、目ざめていたものが眠り込んでしまう。――《精神》は国民から国民へ、人から人へ、常に生きて動いている。そしてどの国民もどの人間も、《精神》を、自分だけのものとして引き留めて置くことはあり得ない。しかし…《精神》は各人の衷(うち)に在る限りない生命の火である。―― それは同一の《火》である。そしてわれわれは、その火を燃え立たせるために生きている…」(ロマン・ロラン)
 ロランの生涯は、人間の衷に播かれている「限りない生命の火」を守り、はぐくみ、育てるための努力に充たされていた。

◎プラトンの「第七書簡」から
そのひとはかならず、驚くべき学びの道を教わったと思い、いまこそ張り切らねばならない、そうしなければ生きる甲斐もないと、思うものです。で、それからあとは、かれは、自分でも心を引きしめ、この道の先導者にも心を引きしめてもらい、どの段階においても目的を達するか、もしくは指導者なしに自分で自分を指導できる力を、手に入れるかするまでは、気をゆるめない。そういう方向に、そういう心がけで、こういうひとは生きてゆく。つまり、どんな仕事についているにせよ、一面ではその仕事に従事しながらも、他面では、何はさておきつねに哲学に、また、自分自身を最大限に聡明な、記憶力のある、胸中冷静にものごとを考量できる者に育ててくれるといった、そういう類の一日一日の心の糧に、執心しつづけるというふうにして。そして、この方向に反対な生き方は、一貫して憎むものです。

… これらのひとたちは、少なくともわたしの判断では、肝心の事柄を、少しも理解している者ではありえない、と。実際少なくともわたしの著書というものは、それらの事柄に関しては、存在しないし、またいつになってもけっして生じることはないでしょう。そもそもそれは、ほかの学問のようには、言葉で語りえないものであって、むしろ、[教える者と学ぶ者とが]生活を共にしながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、突如として、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、[学ぶ者の]魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自身がそれ自体を養い育ててゆくという、そういう性質のものなのです。

◎『パイドン』
・岩田靖夫訳(岩波文庫)
(69c)じっさい、秘儀にたずさわる人々が言うように、『ディオニュソスの杖をもつ人々は多いが、バッコスの徒(ディオニュソスと一体になった人)は少ない』からだ。僕の考えでは、バッコスの徒とは他でもない正しく哲学した人々のことである。僕もまたできる限りその人々の仲間になろうとして、人生において何事をもおろそかにせず、あらゆる手段で努力してきたのだ。

・村治能就訳(角川書店)
(69c)たしかに秘儀にたずさわる人たちが言うように、『酒神の杖もつもの多けれど、バッコスの徒たるもの少なし』なのだ。わしの考えでは、これらのひとたちこそ、まさしく知恵を愛求した人たちにほかならないのだ。じっさい、わしも自分の能力のゆるすかぎり、このひとたちの仲間になりたいと願って、そのためにわしは生涯において何一つおろそかにしたことはない、むしろ八方手をつくしてそうなることにつとめてきたのだ。

2020年04月13日