天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)が、
「坐禅」に関して話します。
思い込みを捨てて、歪まない足で立ち上がる心、
(足を組んで坐る)いわゆる「坐禅」の時でも
これを失わずに坐れます。
平常な足、腰、体、心で
活溌溌地に生きていく姿勢、
これが真の坐禅であることを
明確に伝え、ともに実践していければ
と思っています。
天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)が、
「坐禅」に関して話します。
思い込みを捨てて、歪まない足で立ち上がる心、
(足を組んで坐る)いわゆる「坐禅」の時でも
これを失わずに坐れます。
平常な足、腰、体、心で
活溌溌地に生きていく姿勢、
これが真の坐禅であることを
明確に伝え、ともに実践していければ
と思っています。
フランクルの『夜と霧』の講演録で引用している
タゴールの詩を紹介して、お話ししました。
「私は寝て夢をみていた、人生は喜びかもしれない、と。
私は目を覚まして、そして気づいた、人生は義務だったのだ、と。
私は働き、ついに気づいた、義務は喜びだったのだ、と。」
人生・義務ということに関してとても考えさせられます。
仏教をズバリ一言で表現した言葉を紹介しています。
ご覧になる場合、こちらをクリックしてください。
5月11日に、東京大学の学生相談所主催でのオンライン坐禅会が行われ、学生さん先生スタッフ、計90人以上が参加されました。
そこでの講話(約40分)の動画をアップします。
●講話(0)「人類の重大な損害とは?」
(最初の部分だけ、録画ができておらず、この部分は2日後の5月13日にあらためて撮りなおしたものです。)
こちらをクリックしてください。
●講話(1)「自分で自害・地獄作りをしていないか?」
百年前のアメリカ人の「重大な国家的損害」にとどまらず、人類史上最大の重大な損害と思われることを話しました。
・なぜ、ぶざまで歪んだ姿勢でいるのか?
・自分が自分の敵になっていないか?
・自分で地獄を作っていないか?
こちらをクリックしてください。
●講話(2)「持ち前を使う道」
貝原益軒、孟子、吉田松陰を取り上げました。
人間がもっている根本の問題を、実に深く見つめた人たちです。
この動画の終わりのほうで、「禅とは何か」の最も重要と思うところも述べました。
こちらをクリックしてください。
●講話(3)
禅の根本を簡潔に話しました。
そして西田幾多郎の言葉の中で一番大事だと思える言葉「天賦を発揮する」の箇所を読みました。
●講話(4)
漱石が百年少し前に学生に語りかけた講演「私の個人主義」は、現代の私たちにも鋭く大事な問いをつきつけていると思います。
「孔雀の羽根で威張っているだけなのではないか?」
「死ぬまで中腰でまごまごしたままで終わってしまうぞ」
●講話(5)
「禅」と「坐禅」が合致する言葉を味わいたいと思います。道元禅師の言葉を読み味わいます。
講話の後半は、しばしお待ちください。
令和2年7月7日に、
横田南嶺老師ご臨席のもと、
円覚寺僧堂(専門道場)の雲水さん(修行僧)に、
坐禅の講義をZoom(ズーム)で行ないました。
本当は4月に、実際に鎌倉の円覚寺に出向いて行なう予定が、
コロナ禍のため行えず、
【Zoom】での講義となりました。
数回に分けてアップします。
●【Zoom坐禅講義1】
●【Zoom坐禅講義2】
●【Zoom坐禅講義3】
●【Zoom坐禅講義4実践編】
こちらをクリックしてください。
令和2年9月28日に、横田南嶺老師ご臨席のもと、
円覚寺の大方丈にて、
円覚寺僧堂(専門道場)の雲水さん(修行僧)に、
法話と坐禅指導を行ないました。
録画しましたので、数回に分けてアップします。
●法話1 こちらをクリックしてください。
●法話2 こちらをクリックしてください。
●法話3 こちらをクリックしてください。
法話4(身体での実践編) こちらをクリックしてください。
円覚寺にて、横田南嶺老師ご臨席のもと、雲水さんたちに法話と坐禅指導しました。
●(1)法話の前半部分です。
「動く」と「止まる」が分かれる前の次元を生きることに禅の本領があることを話しています。
こちらをクリックしてください。
●(2)高村光太郎の「姿勢と動勢」という文章をヒントに、禅(坐禅)の身体の大問題をテーマに話しています。
●(3)身体の具体的なあり方の実地指導の部分です。
「すべてを放って寝て、ただ起き上がる」、ここに大事な部分のすべてがあります。これを何をしていても(坐っていても立っていても)貫けばよいのです。
●(4)横田南嶺老大師からご質問を受け、雲水さんに向け、その返事をした箇所の動画です。
「坐禅中に足が痛くなったら、いったん寝ころぶ所に戻ったほうがよいのか」の問いに対して、「坐禅の時間は坐禅として、寝転んだりせず、活溌溌なあり方に立ち返れるようになること可能」とお答えしています。
天正寺での坐禅会で、最初の20~30分程度の法話を
ユーチューブにアップしていこうと思います。
これは1月8日(土)、今年最初の法話です。
どうぞご覧ください。
デカルトがその著
『メディテーション(省察)』で、
「堅固でゆるぎのないものを
うちたてようと欲するなら、
すべてを根底からくつがえし、
最初の基礎から新たに始めなければならない」
と書いています。
ともすると、あやふやで不確かな土台の上で
マゴマゴしているだけで私たちの人生が
過ぎ去ってしまいがちだと思います。
中腰でマゴマゴという「ふだんの生活態度」を脱して、
しっかりした土台、最初の基礎から立ち上がる道があり、
誰でも今、その道を歩み出すことができます。
このことをデカルトや西田幾多郎の言葉を
参照しながら語りました。
1月9日(日)の法話の動画です。
テーマは、
「私たちの存在理由(レゾンデートル」です。
こちらをクリックしてください。
私たちは、その根本の存在理由(レゾンデートル)に
立ち返っていきることができます。
存在理由に本当に立ち返って生きるときに、
虚しいままにマゴマゴ過ごすのではない、
本当に生甲斐に充ちた生が開かれると思います。
私たちは誰でも、「いのちの恵み」を享けています。
私たちは誰でも、自分の足で立ち上がることができます。
その心(こころざし)を起こすことは必要です。
ただ自分の足で立ち上がり、恵みを受け取ろうという
気持ちを起こしさえすれば、誰でも歩める道です。
どうかこの道を共に歩んでいきたいと切に願っています。
1月23日(日)の坐禅会での法話です。
西田幾多郎などの言葉を引用しながら、
「真に腰を立てる」道について話しました。
真に腰を立てるとは、
自分が現に今もっている本性(持前、天賦)を発揮することであり、
「活きた真の理」に立ち返ることであり、
その時、人は誰でも、その人なりの
「美の頂上に達する」ことができます。
誰でも歩めること道を、ぜひ歩んでいきましょう。
https://youtu.be/WQEaG4qLvlA
1月29日(土)の法話の前半です。
西田幾多郎『善の研究』の中の最も大事だと思える
文章を読み、解説しました。
本当に大事な言葉は、読むごとに、
常に新たに心に響いてきますし、
今自分が現に生きる勇気を与えられると感じます。
そして私は、この西田の言葉を、
現に今、自分の身体でもって生きる道が
あることも確信するようになりました。
(それを坐禅、宴坐と名づけてもよいですし、
特に名づけなくてもかまわないのですが)
ぜひこの誰にでもできる道を歩んでいければと思っています。
1月29日(土)の法話の後半です。
「生命(いのち)とは何か?」
という問題を、みなさん、考えたことありますか?
今、自分も生きているし、
動物や植物も生きているではないか、
とみなさんも思うでしょうし、私もそう思います。
このような次元の「いのち」も
もちろん生きている証ですが、
私は、ある時、これをはるかに越える
生命(いのち)の次元にぶつかり
度肝を抜かれました。
私の心臓を刀で刺し貫かれて死ぬかと
思うほど、度肝を抜かれました。
私が見たのと同じものをロダンも見て、
「生命」に関して、実に深い言葉を
述べています。
これを読み、味わい、
本当の「生命(いのち)」に
私たちも触れて生きる手がかりを学びたいと思います。
「沢木興道老師の言葉7」
3月19日(土)にした話の動画です。
https://youtu.be/xfSfeZCx6qs
テーマ:
「仏教は、こしらえておるものをなくす宗教」
私たち人間は、「頭で考えたこと」
「人から聞いたこと」など、主義主張が
人とぶつかりあり、迷い惑ったまま
生きていることが多いと思います。
仏教までが、
「これが仏教の考えだ(方法だ)」
みたいな主義主張だとしたら、
私たちは、どこまでも救われないと思いませんか?
沢木老師は、次のように言っています。
「[さまざまな主義主張は]それらは要するに
何かの観念から割り出した作りもので、
この作りものの観念に従って人生を見ると
間違いが生じてくる。そうすると、
頭の中でこしらえておるものを
なくすればよいわけである。
仏教というものはこしらえておるものを
なくする宗教である。」
実に徹底しています。
ここに体丸ごと徹する道が
仏道であり正身端坐(坐禅)です。
このことを深く味わい、生きていければと思います。
3月20日(日)にした法話です。
https://youtu.be/PkpBQWjz5ng
テーマ:
「ブッダ的省察(メディテーション)」
「メディテーション(省察)」という言葉
は、通常いわれている使われかたよりも、
はるかに深い意味があります。
この「メディテーション」という言葉を
最も深くとらえ、真剣に取り組んだのが
お釈迦様であること、
そのお釈迦様の姿勢から
私たちも直に学べることを
じっくり見ていきたいと思います。
「省察」という言葉は、仏教で
とても大事な言葉です。
道元禅師も
「常に自ら省察せよ」
という遺教経(お釈迦さまの遺言とされるお経)
の言葉を、道元禅師ご自身が、
死を覚悟した日々の中で、
弟子に話しています。
近代哲学の祖と呼ばれるデカルトが、
1641年に出版した本が(英語でいうと)
「Meditation(メディテーション)」という題名で、
「省察」と訳されています。
デカルトの実践した「メディテーション」はいかなるものか、
それとお釈迦さまのメディテーションは
いかなる関係にあるか、
ここをじっくり学んでいこうと思います。
今、関空にいまして、これからギリシャに向けて発ちます。
オリンピックが開催されますが、その「聖火」は、今でも、
オリンピアのヘラ神殿前(ゼウス神殿前)から取られています。
ロマン・ロランは、「限りない生命の火――われわれは、その火を燃え立たせるために生きている」と語っていますが、
私も、この「火」を(私自身に、そして周りの人に)燃え立たせることが、私の天職、天命であると確信するようになりました。
この「火」は何なのかを見極め、この啓示を確かめ、この決意をみなぎらせるために、オリンピア、アテネに行ってきます。
現地からズーム配信いたします。
(日本時間で記します)
●7月27日(土)午後8時開始(9時まで)。
オリンピアの(約千二百年続いた)元々のオリンピック会場から。
「世界七不思議」の一つ「フィディアス作ゼウス像」があった場所から、世界最大の不思議に迫ります。
●7月30日(火)午後8時開始(9時まで)。
パルテノン神殿から。
●7月31日(水)午後8時開始(9時まで)。
アクロポリスミュージアム内から。
世界の彫刻の最高傑作「ディオニュソス像」の前からも配信します。
ともに、限りない生命の火を燃え立たせて生きていきましょう。