製品一覧

法然上人の言葉1

法然上人の言葉1(観法)

近来の行人、観法をなす事なかれ。佛像を観ずとも、運慶・康慶が造りたる佛程だにも観じあらわすべからず。極楽の荘厳を観ずとも、桜梅桃李の花菓程も、観じあらわさん事かたかるべし。彼の佛、今現に世に在して成佛し給えり。当に知るべし、本誓の重願、虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得の釈を信じて、ふかく本願をたのみて、一向に名号を唱うべし。

(意訳)
(浄土門に入り)仏道を行ずる人は、「観法」(阿弥陀仏や浄土の様子などを観ずる、心の目で見る瞑想)などやめちまいなさいよ。
「仏の姿を観ずる」と思って行じても、運慶や康慶が作った仏像を実際に見ている時ほども、観ずることできないでしょう。「浄土の素晴らしい様子を観ずる」と言っても、目の前の梅や桜の花びら等を実際に見る時ほどにも、観ずることできないでしょう。
南無阿弥陀仏と唱えれば必ず救うという仏の誓いを深く信じましょう。

(私釈)
「観無量寿経」に、仏や浄土を観ずる瞑想が、細かく書かれています。「日想観」といって、沈んでいく夕陽を見、沈んだ後も心の目で観ずる瞑想から始まり、16の瞑想が詳しく書かれています。浄土の教えを信ずる人は、平安時代(法然上人以前の時代)から、それを行じていました。

法然上人は、お経に書かれている、その瞑想を、スパッと全部やめました。
悩みに悩みに悩んだすえ。(スパッと捨てる覚悟ができるまでに、どれほどか悩んだことでしょ。この法然上人の苦しみに、私はどんなに感謝しても感謝しきれません。)

瞑想など全くできなくても、名号(南無阿弥陀仏)を唱えれば救われるという、それだけを生涯信じ、人にもそう説き、「どんな罪人にも、自分にも、その誓いがかけられている」と信じて、人と接しました。

阿弥陀仏を観ずる瞑想すら問題外として全くやめたくらいですから、ましてや、「気づき」の心の在り方を修していくとか、さらに全く問題外です。
一見すると、通常の「仏教」や「浄土教」(法然上人以前の浄土教では、阿弥陀仏や浄土を観ずることを重視しています)の教えと完全に逆です。ですが、私が思うに、アッタカヴァッガという一番古いお釈迦さまの言葉とはピタリ一致しています。
何という素晴らしいことでしょうか。

仏を観じたり、浄土を観じたり、数息観をしたり、禅定や三昧に入ったり、「気づきの瞑想」を修していくのも、それはそれで素晴らしいことだと思います。
 
ですが、もし、「このようなことを続けていても、自分の心にとらわれたままで、それを抜け出るのは決してできないのでは?」との疑問が起こり、その疑問に本当に真剣に向き合うならば、法然上人の大転換のありがたさが身にしみる時がくるかもしれません。
2016年03月10日

2017年01月01日

維摩経原典(鳩摩羅什訳・支謙訳)と日本語訳

◎『維摩詰所説経』弟子品第三 鳩摩羅什[350~409]訳
爾時、長者維摩詰、自念。「寝疾于床。世尊大慈、寧不垂愍。」
仏知其意。即告舍利弗。「汝行詣維摩詰問疾。」
舍利弗白仏言。「世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。
憶念、我昔曽於林中宴坐樹下。時維摩詰来謂我言。
『唯舍利弗。不必是坐為宴坐也。
夫宴坐者、不於三界現身意、是為宴坐。
不起滅定而現諸威儀、是為宴坐。
不捨道法而現凡夫事、是為宴坐。
心不住内亦不在外、是為宴坐。
於諸見不動而修行三十七品、是為宴坐。
不断煩悩而入涅槃、是為宴坐。
若能如是坐者、仏所印可。』
時我世尊。聞説是語黙然、而止不能加報。
故我不任詣彼問疾。」

◎『維摩詰所説経』 弟子品第三 支謙[196頃~255頃]訳
於是長者維摩詰自念。「寝疾于床。念仏在心。仏亦悦可是長者。」
便告賢者舍利弗。「汝行詣 維摩詰問疾。」
舍利弗白仏言。「我不堪任詣彼問疾。所以者何。
憶念我昔常宴坐他樹下。時維摩詰来謂我言。
『唯舍利弗。不必是坐為宴坐也。
賢者坐、當如法不於三界現身意、是為宴坐。
不於内意有所住、亦不於外作二観、是為宴坐。
立於禅不滅意現諸身、是為宴坐。
於六十二見而不動、於三十七品而観行。
於生死労垢而不造、在禅行如泥洹。
若賢者、如是坐如是立、是為明暁如来坐法。』
時我世尊。聞是法黙而止不能加報。
故我不任詣彼問疾。」


◎日本語訳『維摩経』植木雅俊訳(岩波書店)
第3章:声聞と菩薩に見舞い派遣を問う
その時、リッチャヴィ族のヴィマラキールティ(維摩詰)[の心]にこの[思い]が生じた。
 「私は、病になって苦しみ、寝台に臥している。けれども、正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来は、私のことを知ることもなく、私への哀れみの故に、病気の見舞いに誰かある人を遣されることはないのだろうか?」
 すると、世尊は、リッチャヴィ族のヴィマラキールティの[考えている]ことを察知された。
 そこで、世尊は、尊者シャーリプトラ(舎利弗)におっしゃられた。
 「シャーリプトラよ、あなたは、リッチャヴィ族のヴィマラキールティの病気見舞いに行くがよい」
 [世尊から]このように言われて、尊者シャーリプトラは、世尊にこのように言った。
 「世尊よ、私は、リッチャヴィ族のヴィマラキールティの病気見舞いに行くことに耐えられません。それは、どんな理由によってでしょうか? 世尊よ、私は、思い出します。ある時、私は、[多くの木々の中の]とある木の根もとで独居して沈思黙考していました。すると、リッチャヴィ族のヴィマラキールティが、その木の根もとのあるところ、そこへ近づいてきて、私にこのように言いました。

 『尊者シャーリプトラよ、あなたが独居して沈思黙考しているような、そのようなやり方で沈思黙考することを企てるべきではない。
 しかるに、三界において身体も、あるいは心も現ずることがないように、そのように、[あなたは]沈思黙考するべきである。
滅尽[定]から背を向けずに、[行・住・坐・臥の四つからなる]すべての威儀において現ずるように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
 [覚りを]達成したという特徴を棄てることなく、凡人の諸々の特徴において現ずるように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
 あなたの心が、自分[の中]にあるのでもなく、[自分を]離れて活動しているのでもないように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
あらゆる[誤った]見解(邪見)に行き着くことを避けることなく、覚りを助ける三十七の[修行]法(三十七助道法)において現ずるように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
[六道における]生存の循環(輪廻)に繋がれている煩悩を断ち切ることなく涅槃に入るように、そのように[あなたは]沈思黙考するべきである。
 尊者シャーリプトラよ、このように独居して沈思黙考を行なうところの人たち、それらの人たちの沈思黙考を、世尊は認可されるのである』と。

 世尊よ、その私は、この[言葉]を聞いて、ただ黙り込んでしまいました。私は、それ以後、それに対して返事をすることができませんでした。それ故に、私は、その良家の息子(善男子)の病気見舞いに行くことに耐えられません」

サンスクリット原文:
pratisamlayana :
complete absorption, retirement into a lonely place
kaya : body
citta : heart

2017年03月22日

維摩経義疏(聖徳太子著)原文のみ

◎『維摩詰経疏』卷第中 聖徳太子[574~622]撰
上宮皇御製 弟子品第三 
明如来聞浄名有疾、遣五百弟子問疾。故因為品目也。
此品及菩薩品。別序中之第三顕徳序也。
何則如来三達[天眼通・宿命通・漏尽通]適然万機同照。
豈其不知。為遣問疾。但文殊可往。
五百声聞不堪。八千菩薩亦不能。
而猶遣者、乃是欲令諸人各陳昔日受屈。
因顕浄名之妙弁徳行無等双。是故名為顕徳序也。…
然先遣声聞。後命菩薩者。若菩薩既辞不能。則声聞無復可遣。
先命声聞皆辞不堪。即命菩薩。理無可推。自受応往。
所以先遣声聞後命菩薩也。…
第一命舍利弗。此人十弟子中智慧第一。所以第一命也。…
唯舍利弗不必是坐為宴坐者、夫論理中之宴、不必如舍利弗也。
身子既為小乗。故患世散乱、欲隠山林以摂身心。
而浄名致呵者、
若解「万境即空」、不存彼此者、何有身心而生散乱也。
若存「万法是有」、不能亡者、雖入山林。則散乱何離也。…
夫宴坐者不於三界現身意是為宴坐者、
言、彼此倶亡、無山可入、無世可避、
是則身心不現於三界。是名為宴。
汝存彼此、棄俗入山、則身心現於三界。豈名好宴。
此句呵不能摂身心。
不起滅定而現諸威儀是宴坐者、起之言出。
智雖合空、而現有中種種威儀、無方化物。乃名為宴。
汝則、唯心自度、益物為煩。那得好宴。
此句呵不能平空有二境也。
不捨道法而現凡夫事是為宴坐者、道法謂聖法。
言、雖能聖法、亦俗法中現凡夫事、随機化物。乃名真宴。
汝存、凡夫可捨、聖道可取。則成分別。那得為宴。
此句呵不能平凡聖二境也。
心不住内亦不在外是為宴坐者。
二諦[真諦・俗諦]理為内。六塵[色声香味触法]為外。
言、不著二諦、不著六塵、内外双亡。乃名好宴。
汝存、六塵可棄、二諦可修。則成是非。那得好宴也。
此句呵不能亡是非。
肇法師[374~414]云。
「身為幻宅。曷為住内。万物機斯虚。曷為在外。
小乗防念故繋心於内。凡夫多求故馳想於外。
大士斉観故内外無寄也。」
於諸見不動而修行三十七品是為宴坐者。動之言出。
若能解「諸見即空無可捨」、亦修行三十七品。乃名真宴。
汝存「諸見可遣道品可修」、則是取相。何名好宴。
此句呵不能平真俗。
不断煩悩而入涅槃是為宴坐者。
若能解「煩悩即空無可断」、是則自証涅槃。
汝存「煩悩已断方入涅槃」、則成分別。何名為宴。
此句呵不能証涅槃方便。
肇法師云。「煩悩真性即是涅槃。慧力強者観煩悩即空。
是入涅槃。不待断而後入也。」
此中大意皆同挙是顕非。但逐事文異也。

2017年03月22日

西田幾多郎『善の研究』から

◎西田幾多郎[1870 - 1945]著 『善の研究』(1911年)から引用します。

 

2019年1月13日の東京での坐禅会で西田の言葉を資料として読みました。

「(思っていたより)わかりやすい言葉だ」との感想が何人かから聞かれました。

以下、『善の研究』から、私が重要だと思う言葉を抜き出しました。



 今もし真の実在を理解し、

天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、

疑いうるだけ疑(うたが)って、

凡ての人工的仮定を去り、

疑うにももはや疑いようのない、

直接の知識を本として出立せねばならぬ。

 善とは自己の発展完成self-realizationであるということができる。

即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である。

竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、

人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。…
 ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。

美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。

理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂である。

それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、

人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。

善は即ち美である。

 個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。

即ち他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮するのである。

個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何に関せず

誰にでもできることである。

いかなる人間でも皆各その顔の異なるように、

他人の模倣のできない一あって二なき特色をもっているのである。

而してこの実現は各人に無上の満足を与え、

また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。
 従来世人はあまり個人的善ということに重きを置いておらぬ。

しかし余は個人の善ということは最も大切なるもので、

凡て他の善の基礎となるであろうと思う。

真に偉人とはその事業の偉大なるが為に偉大なるのではなく、

強大なる個人性を発揮した為である。…
 余は自己の本分を忘れ徒らに他の為に奔走した人よりも、

能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。

しかし余がここに個人的善というのは私利私欲ということとは異なっている。

個人主義と利己主義とは厳しく区別しおかねばならぬ。

利己主義とは自己の快楽を目的とした、

つまり我儘ということである。

個人主義はこれと正反対である。

各人が自己の物質欲を恣にするという事はかえって個人性を没することになる。

 世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。

しかしかくの如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。

宗教は己の生命を離れて存するのではない、

その要求は生命其者の要求である。

かかる問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。

真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる

宗教的要求を感ぜずにはいられないのである。

 我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程

愛は大きくなり深くなる。

 主観は自力である、客観は他力である。

我々が物を知り物を愛すというのは

自力をすてて他力の信心に入る謂である。

人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、

我々は日々に他力信心の上に働いているのである。
 学問も道徳も皆仏陀の光明であり、

宗教という者はこの作用の極致である。

学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、

宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。
 「父よ、もしみこころにかなはばこの杯を我より離したまへ、

されど我が意のままをなすにあらず、

唯みこころのままになしたまへ」とか、

「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、

また地獄におつべき業にてやはんべるらん、

総じてもて存知せざるなり」とかいう語が宗教の極意である。

2019年01月14日

Zoom坐禅会資料(真民、ロラン、沢木等)0412

2020年4月12日のZoom坐禅会で用いた資料です。

・坂村真民の詩
・沢木興道
・ロマン・ロラン
・プラトン



◎横田南嶺老師が引用している坂村真民先生の詩

先生の あの清澄 あの放射 あの芳香
それは どこからくるのであろうか
先生のなかに燃えている火
衆生無辺誓願度
あの火を受け継がねばならぬ

「生きてゆく力がなくなる時」
死のうと思う日はないが
生きてゆく力がなくなることがある
そんな時 お寺を訪ね
わたしはひとり 仏陀の前に坐ってくる
力わき明日を思う心が 出てくるまで
坐ってくる

◎沢木興道老師の言葉
◎観音経講話
 頭の中でこしらえておるものをなくすればよいわけである。仏教というものはこしらえておるものをなくする宗教である。

 内面的にいつも盛り返す力を与えるのが、仏教という宗教である。それがすなわち信仰である。

◎『沢木興道 聞き書き』(酒井得元、講談社学術文庫)
 道元禅師の只管打坐は処世術でも技術でもない、人格の真実である。無常ということは、生きることである。いかにして、真実の生活をするかの努力が仏道者なのである。なにかのまねであったり、つくりものであったりしたならば、そんなものは人間ごとであっても仏道ではない。仏道とは、いろいろな働きをする以前の、もとの自分になることなのである。(166頁)

 自分をとりつくろうことは、わしはできぬようになった。また、自分というものを作ってはならぬと思うようになった。どこまでも作りものを作らないで進んでゆく、その潑剌(溌剌)たる生活こそ真実なものである。(201頁)

 娑婆世界のことは、そのときどきのご都合次第だけのことであるから、猫の眼のように変わるのが当たり前である。真実に生きんとするものは、こちらからその都度これに応ずるには及ばない。次から次へと変わってゆくものを追っかけて一生ふらふらしていたのでは、それこそ一生を空しくしてしまうものである。(263頁)

 坐禅はあたかも、武士が三尺の秋水(しゅうすい)を引き抜いて身構えていると同様に真剣な姿である。これ以上、真剣な姿勢はありえない。どんな人間でも、一ばん尊いのは、その人が真剣になったときの姿である。どんな人間であろうと、ギリギリの真剣な姿には、一指も触れることのできない厳粛なものがある。これがわしの一生を坐禅に供養させるようになった因縁である。
 そして、わしがこれまでいつもあこがれておりながら、どうにも仕方のなかった「道」というものが、そのときはっきりと浮彫(うきぼり)になって、具体的に坐禅という実物となって、わしの前に直接示されたのであった。(67頁)

 わしの一生はあのように袈裟を搭けて、頭を剃って、坐禅する、それでおしまい、ほかにはなにもいらぬ、というところまで行った。(89頁)

◎ロマン・ロランの言葉から
「《永遠なもの》 L'Eternel の種子は、人類のあらゆる畠にゆたかに播かれてある。 ――しかしあらゆる土地が、その種子を発芽させる用意をととのえているわけではない。それは、ここでは育ち実るかと思うと、かしこでは眠っているままである。しかし種子はいたるところに在る。そして眠っていたものが目ざめる一方では、目ざめていたものが眠り込んでしまう。――《精神》は国民から国民へ、人から人へ、常に生きて動いている。そしてどの国民もどの人間も、《精神》を、自分だけのものとして引き留めて置くことはあり得ない。しかし…《精神》は各人の衷(うち)に在る限りない生命の火である。―― それは同一の《火》である。そしてわれわれは、その火を燃え立たせるために生きている…」(ロマン・ロラン)
 ロランの生涯は、人間の衷に播かれている「限りない生命の火」を守り、はぐくみ、育てるための努力に充たされていた。

◎プラトンの「第七書簡」から
そのひとはかならず、驚くべき学びの道を教わったと思い、いまこそ張り切らねばならない、そうしなければ生きる甲斐もないと、思うものです。で、それからあとは、かれは、自分でも心を引きしめ、この道の先導者にも心を引きしめてもらい、どの段階においても目的を達するか、もしくは指導者なしに自分で自分を指導できる力を、手に入れるかするまでは、気をゆるめない。そういう方向に、そういう心がけで、こういうひとは生きてゆく。つまり、どんな仕事についているにせよ、一面ではその仕事に従事しながらも、他面では、何はさておきつねに哲学に、また、自分自身を最大限に聡明な、記憶力のある、胸中冷静にものごとを考量できる者に育ててくれるといった、そういう類の一日一日の心の糧に、執心しつづけるというふうにして。そして、この方向に反対な生き方は、一貫して憎むものです。

… これらのひとたちは、少なくともわたしの判断では、肝心の事柄を、少しも理解している者ではありえない、と。実際少なくともわたしの著書というものは、それらの事柄に関しては、存在しないし、またいつになってもけっして生じることはないでしょう。そもそもそれは、ほかの学問のようには、言葉で語りえないものであって、むしろ、[教える者と学ぶ者とが]生活を共にしながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、突如として、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、[学ぶ者の]魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自身がそれ自体を養い育ててゆくという、そういう性質のものなのです。

◎『パイドン』
・岩田靖夫訳(岩波文庫)
(69c)じっさい、秘儀にたずさわる人々が言うように、『ディオニュソスの杖をもつ人々は多いが、バッコスの徒(ディオニュソスと一体になった人)は少ない』からだ。僕の考えでは、バッコスの徒とは他でもない正しく哲学した人々のことである。僕もまたできる限りその人々の仲間になろうとして、人生において何事をもおろそかにせず、あらゆる手段で努力してきたのだ。

・村治能就訳(角川書店)
(69c)たしかに秘儀にたずさわる人たちが言うように、『酒神の杖もつもの多けれど、バッコスの徒たるもの少なし』なのだ。わしの考えでは、これらのひとたちこそ、まさしく知恵を愛求した人たちにほかならないのだ。じっさい、わしも自分の能力のゆるすかぎり、このひとたちの仲間になりたいと願って、そのためにわしは生涯において何一つおろそかにしたことはない、むしろ八方手をつくしてそうなることにつとめてきたのだ。

2020年04月13日

フランクル著『夜と霧』資料

『夜と霧』フランクル著。霜山徳爾訳。みすず書房。


第七章 苦悩の冠
(以下p165)
強制収容所にずっと長く留まることが人間に与える典型的な性格特徴を、心理学的に描写し、精神病理学的に説明しようとするこの試みは、人間の心が結局環境によって規定されるという印象を与えざるを得ないかもしれない。たとえば強制収容所では、そこでの生活が、独自な社会環境として、人間の行為を強制的に形づくるのではないだろうか。

 しかし人は当然のことながら異論をたてることができるのである。そして一体それではどこに人間の自由があるのかと問うであろう。一体与えられた環境条件に対する態度の精神的自由、行動の精神的自由は存しないのであろうか? 自然主義的な世界観や人生観が、人間は生物学的であれ、心理学的であれ、社会学的であれ、多様な規定性や条件の産物に他ならないとわれわれに信じさせようとすることは真実なのであろうか? 人間は従ってその身体的体質、その性格学的素質及びその社会的状況の偶然な結果に他ならないのだろうか。もっと具体的に言うならば、収容所生活という特殊な社会的条件の環境に対する人間の心理的反応において、人間は彼が強制的に入
(以上p165、以下p166)
れられたこの存在形式の影響から全く抜き出ることができないといえるであろうか? すなわち彼は収容所を支配していた「諸々の事情の強制の下に他のようにはできなかった」であろうか?
さてこの問題にわれわれは経験的にも理論的にも答えることができる。経験的には収容所生活はわれわれに、人間は極めてよく「他のようにもでき得る」ということを示した。人が感情の鈍麻を克服し刺戟性を抑圧し得ること、また精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、外的にも内的にも存し続けたということを示す英雄的な実例は少くないのである。
強制収容所を経験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通って行く人間の姿を知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ――彼等は、人が強制収容所の人間から一切をとり得るかも知れないが、しかしたった一つのもの、 すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているのである。

 「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由を奪い、自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。

 あらゆる可能な視点の中で究極のものであるこの視点よりみると強制収容所内の囚人の心理的反応様
(以上p166、以下p167)
式は、ある身体的、心理的、社会的条件の単なる表現以上のものと思わざるを得ないのである――たとえ食物のカロリー不足や睡眠不足やいろいろな心理的「コンプレックス」が、人間が典型的な収容所根性に堕してしまうのを理解させるとは言え最後の観点においては人間の内部に起ったもの、内的決断の結果が示されるのである。原則的に言えば各人はかかる状態の上でもなお、収容所において何が彼から――精神的意味で――出てくるかということを何らかの形で決断し得るのである。すなわち典型的な「収容所囚人」になるか、あるいはここにおいてもなお人間としてとどまり、人間としての尊厳を守る一人の人間になるかという決断である。

 ドストエフスキーはかつて「私は私の苦悩にふさわしくなくなるということだけを恐れた」と言った。もし人が、その収容所内での行動やその苦悩や死が今問題になっている究極のかつ失われ難い人間の内的な自由を証明しているようなあの殉教者的な人間を知ったならば、このドストエフスキーの言葉がしばしば頭に浮んでくるに違いない。彼等はまさに「その苦悩にふさわしく」あったということが言えるのであろう。彼等は義しき苦悩の中には一つの業績、内的な業績が存するということの証しを立てたのである。人が彼から最後の息を引きとるまで奪うことのできなかった人間の精神の自由は、また彼が最 後の息を引きとるまで彼の生活を有意義に形成する機会を彼に見出さしめたのである。なぜならば創造 的に価値を実現化することができる活動的生活や、また美の体験や芸術や自然の体験の中に充足される
(以上p167、以下p168)
享受する生活が意義をもつばかりでなく、さらにまた創造的な価値や体験的な価値を実現化する機会が ほとんどないような生活――たとえば強制収容所におけるがごとき――でも意義をもっているのである。すなわちなお倫理的に高い価値の行為の最後の可能性を許していたのである。それはつまり人間が全く外部から強制された存在のこの制限に対して、いかなる態度をとるかという点において現われてくるのである。創造的及び享受的生活は囚人にはとっくに閉ざされている。しかし創造的及び享受的生活ばかりが意味をもっているわけではなく、生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもっているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命も死もそうである。苦難と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである!

(4月19日、ここまで。)

●5月3日はここから:

 一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命とそれが彼に課する苦悩とを自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況にあってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである――ある人間が勇気と誇りと他人への愛を持ち続けていたか、それとも極端に尖鋭化した自己保持のための闘いにおいて彼の人間性を忘れ、収容所囚人の心理について既述したことを想起せしめるような羊群中の一匹に完全になってしまったか――その苦悩に満ちた状態と困難な運命とが彼に示した倫理的価値可能性を人間が実現化したかあるいは失ったか――そして彼が「苦悩にふ
(以上p168、以下p169)
さわしく」あったかあるいはそうでなかったか――。
かかる考察を現実からは遠いとか世間離れしているとか考えてはいけない。確かにかかる道徳的な高さはごく僅かな人間にのみ可能であり、ごく僅かな人間だけが収容所で内的な自由について充分知っており、苦悩が可能にした価値の実現へと飛躍し得たのかもしれない。しかしそれがたった一人であったとしても――彼は人間がその外的な運命よりも内的に一層強くあり得るということの証人たり得るのである。しかもかかる証明は多かったのである。

 そしてそれは強制収容所においてばかりではない。人間は到る処で運命に対決せしめられるのであり、単なる苦悩の状態から内的な業績をつくりだすかどうかという決断の前に置かれるのである。たとえば病める人間の、特に治癒の見込みのない人間の運命を考 えて欲しい。私自身かってある比較的若い患者の手紙を読まして貰ったことがある。そのうちで彼はその友に宛てて、自分はもう生きられないこと、手術も彼を救えないことを知ったと書いていた。しかし 彼はさらに書き続けて、自分は、勇気と品位を保ちながら死に向って行った一人の男が描かれているある映画を思い出したが、当時自分はこの映画を見て、かくもしっかりと死に向えることは「天の賜物」だと考えたが、今や運命は自分にもこのチャンスを与えてくれた、と書いているのであった。

 またその当時トルストイの原作による「復活」という別な映画を見た人が、ここにこそ偉大な運命が あり偉大な人間が描かれているといい、ただわれわれにはそんな運命は恵まれず、かつかかる人間的偉
(以上p169、以下p170)
大さに成長する機会をもっていないと考え――その上映が終ってから近くのカフェーでサンドウィッチとコーヒーを飲みながら、一瞬間だけ意識をよぎったさっきの形而上的な想いを忘れてしまうといったことは幾らでもみられた。しかしその人間自身が今度は自ら大きな運命の上に立たされ、自己の内的な偉大さで向わねばならない決断の前に置かれるとすると彼はもはや以前考えたことをすっかり忘れて諦めてしまうのである――。

 しかし彼がいつかふたたび映画館に坐り、同じような映画が上映されるのを見るようなことがあったとすれば、彼の心の目の前には同時に想い出のフィルムが廻り、感傷的な映画作品よりも遙かに偉大なことをその生涯において実現化した収容所のある人々を想い出すであろう。そして人間の内的な偉大さを示す幾つかのエピソードのあれこれの細かい内容を想い起すであろう。

 私自身もたとえばこの目でみた強制収容所におけるある一人の若い女性の死を想い出すのである。その話は単純であり、多く語るを要しないのであるが、それにも拘わらずまるで創作されたように詩的な響きをもっているように思われるのである。

 この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされて
(以上p170、以下p171)
いましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。」と彼 女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は謡妄状態で幻覚を起しているのだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしました?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?」 彼女は答えた。「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私はここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ......。」

 既述のように強制収容所の人間における内面的生活の崩壊の究極的な理由は、種々数えあげられた心理的身体的原因の中に存しないで、ある自由な決断に基づくものだとすれば、このことはもっとも詳細に述べられなくてはならない。収容所の囚人についての心理学的観察は、まず最初に精神的人間的に崩壊していった人間のみが、収容所の世界の影響に陥ってしまうということを示している。またもはや内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている。ではこの内的な拠り所とはどこに存するべきであり、どこに存し得るのであろうか? これがいまやわれわれの
(以上p171、以下p172)
問題なのである。

 かつての収容所囚人の体験の報告や談話が一致して示していることは、収容所において最も重苦しいことは囚人がいつまで自分が収容所にいなければならないか全く知らないという事実であった。彼は釈放期限などというものを全く知らないのである。釈放期限は――もしそれが問題になるとしたら(たとえばわれわれの収容所では一度だってこんなことは論じられたことはなかった)――全く不明で、収容期限は限りなく長いものになるのであった。ある著名な心理学者が、収容所における存在様式は「仮りの存在」と名づけられ得るということを指摘したが、われわれはこの特徴の指摘を次のように言って補 いたいと思う。すなわち強制収容所における囚人の存在は「期限なき仮りの状態」と定義されるのである。

 新入りの囚人が収容所にやってくると彼等は通常そこを支配している状態について何らの真実も知っていないのであった。収容所から帰ってきたものがあったとしても彼は沈黙していなければならなかったし、またある収容所からはまだ誰も戻ってきたことはないのであった。......収容所に入って行くと共に彼の心内風景は変って行くのである。すなわち未知が終ると共に......今度は終りの未知がもうやってくるのである。この存在形式が終るのか、終らないのか、終るならばいつ終るかは全く見究めることができないのである。
(以上p172)

2020年04月15日

英語で禅を学ぶ講座資料(4月)

『Zen Mind, Beginner’s Mind』 鈴木俊隆著(曹洞宗の禅僧)

Part 1 第1章 POSTURE
(以下25ページ) (ここ以下、2020年3月1日にやった。)
Now I would like to talk about our zazen posture. When ①
you sit in the full lotus position, your left foot is on your    ②
right thigh, and your right foot is on your left thigh. When   ③
we cross our legs like this, even though we have a right leg   ④
and a left leg, they have become one. The position expresses  ⑤
the oneness of duality: not two, and not one. This is the     ⑥
most important teaching: not two, and not one. Our body    ⑦
and mind are not two and not one. If you think your body    ⑧
and mind are two, that is wrong; if you think that they are   ⑨
one, that is also wrong. Our body and mind are both two    ⑩
and one. We usually think that if something is not one, it is  ⑪
more than one; if it is not singular, it is plural. But in actual ⑫
experience, our life is not only plural, but also singular.    ⑬
Each one of us is both dependent and independent.        ⑭
After some years we will die. If we just think that it is   ⑮
the end of our life, this will be the wrong understanding.    ⑯
But, on the other hand, if we think that we do not die, this   ⑰
is also wrong. We die, and we do not die. This is the right   ⑱
understanding. Some people may say that our mind or soul  ⑲
exists forever, and it is only our physical body which dies.    ⑳
But this is not exactly right, because both mind and body    ㉑
have their end. But at the same time it is also true that they  ㉒
exist eternally. And even though we say mind and body, they  ㉓
are actually two sides of one coin. This is the right under-    ㉔
standing. So when we take this posture it symbolizes this    ㉕
truth. When I have the left foot on the right side of my     ㉖
body, and the right foot on the left side of my body, I do not  ㉗

(以下26ページ)
know which is which. So either may be the left or the right   ①
side.                           ②
The most important thing in taking the zazen posture is  ③
to keep your spine straight. Your ears and your shoulders   ④
should be on one line. Relax your shoulders, and push up    ⑤
towards the ceiling with the back of your head. And you    ⑥
should pull your chin in. When your chin is tilted up, you   ⑦
have no strength in your posture; you are probably dreaming. ⑧
Also to gain strength in your posture, press your diaphragm  ⑨
down towards your hara, or lower abdomen. This      ⑩
will help you maintain your physical and mental balance.   ⑪
When you try to keep this posture, at first you may find    ⑫
some difficulty breathing naturally, but when you get accus- ⑬
tomed to it you will be able to breathe naturally and deeply. ⑭
Your hands should form the “cosmic mudra.” If you put  ⑮
your left hand on top of your right, middle joints of your    ⑯
middle fingers together, and touch your thumbs lightly   ⑰
together (as if you held a piece of paper between them),   ⑱
your hands will make a beautiful oval. You should keep this ⑲
universal mudra with great care, as if you were holding    ⑳
something very precious in your hand. Your hands should be  ㉑
held against your body, with your thumbs at about the      ㉒
height of your navel. Hold your arms freely and easily, and   ㉓
slightly away from your body, as if you held an egg under    ㉔
each arm without breaking it.                       ㉕
(ここまで2020年3月1日にやった)

(2020年4月5日はここから)
You should not be tilted sideways, backwards, or       ㉖
forwards. You should be sitting straight up as if you were    ㉗
supporting the sky with your head. This is not just form or   ㉘
breathing. It expresses the key point of Buddhism. It is a    ㉙
perfect expression of your Buddha nature. If you want true  ㉚
understanding of Buddhism, you should practice this way.    ㉛
These forms are not a means of obtaining the right state of   ㉜
mind. To take this posture itself is the purpose of our practice. ㉝
When you have this posture, you have the right state of     ㉞
mind, so there is no need to try to attain some special state.   ㉟
When you try to attain something, your mind starts to      ㊱
wander about somewhere else. When you do not try to      ㊲

(以下27ページ)
attain anything, you have your own body and mind right    ①
here. A Zen master would say, “Kill the Buddha!” Kill the   ②
Buddha if the Buddha exists somewhere else. Kill the Buddha,③
because you should resume your own Buddha nature.    ④
Doing something is expressing our own nature. We do not ⑤
exist for the sake of something else. We exist for the sake of ⑥
ourselves. This is the fundamental teaching expressed in the ⑦
forms we observe. Just as for sitting, when we stand in the  ⑧
zendo/we have some rules. But the purpose of these rules is  ⑨
not to make everyone the same, but to allow each to express   ⑩
his own self most freely. For instance, each one of us has his   ⑪
own way of standing, so our standing posture is based on    ⑫
the proportions of our own bodies. When you stand, your    ⑬
heels should be as far apart as the width of your own fist,   ⑭
your big toes in line with the centers of your breasts. As in   ⑮
zazen, put some strength in your abdomen(腹). Here also your   ⑯
hands should express your self. Hold your left hand against   ⑰
your chest with fingers encircling your thumb, and put your   ⑱
right hand over it. Holding your thumb pointing downward,   ⑲
and your forearms parallel to the floor, you feel as if you    ⑳
have some round pillar in your grasp—a big round temple    ㉑
pillar—so you cannot be slumped(くずれる) or tilted to the side.     ㉒
(ここまで4月5日ざっとやった。)

(ここ以下、4月26日にやる予定)
The most important point is to own your own physical    ㉓
body. If you slump, you will lose your self. Your mind will    ㉔
be wandering about somewhere else; you will not be in your   ㉕
body. This is not the way. We must exist right here, right    ㉖
now! This is the key point. You must have your own body    ㉗
and mind. Everything should exist in the right place, in the  ㉘
right way. Then there is no problem. If the microphone I use  ㉙
when I speak exists somewhere else, it will not serve its     ㉚
purpose. When we have our body and mind in order, everything㉛
else will exist in the right place, in the right way.          ㉜
But usually, without being aware of it, we try to change  ㉝
something other than ourselves, we try to order things      ㉞
outside us. But it is impossible to organize things if you     ㉟
yourself are not in order. When you do things in the right    ㊱
way, at the right time, everything else will be organized. You ㊲

(以下28ページ)
are the “boss.” When the boss is sleeping, everyone is sleeping.①
When the boss does something right, everyone will do     ②
everything right, and at the right time. That is the secret of ③
Buddhism.                                   ④
So try always to keep the right posture, not only when  ⑤
you practice zazen, but in all your activities. Take the right ⑥
posture when you are driving your car, and when you are   ⑦
reading. If you read in a slumped position, you cannot stay ⑧
awake long. Try. You will discover how important it is to  ⑨
keep the right posture. This is the true teaching. The teaching⑩
which is written on paper is not the true teaching.       ⑪
Written teaching is a kind of food for your brain. Of course  ⑫
it is necessary to take some food for your brain, but it is   ⑬
more important to be yourself by practicing the right way   ⑭
of life.                                      ⑮
That is why Buddha could not accept the religions existing ⑯
at his time. He studied many religions, but he was not    ⑰
satisfied with their practices. He could not find the answer  ⑱
in asceticism(苦行・禁欲主義) or in philosophies. He was not interested in   ⑲
some metaphysical existence, but in his own body and     ⑳
mind, here and now. And when he found himself, he found   ㉑
that everything that exists has Buddha nature. That was his ㉒
enlightenment. Enlightenment is not some good feeling or   ㉓
some particular state of mind. The state of mind that exists  ㉔
when you sit in the right posture is, itself, enlightenment. If  ㉕
you cannot be satisfied with the state of mind you have in   ㉖
zazen, it means your mind is still wandering about. Our    ㉗
body and mind should not be wobbling(よろよろ歩く) or wandering      ㉘
about. In this posture there is no need to talk about the     ㉙
right state of mind. You already have it. This is the conclusion ㉚
of Buddhism.                                  ㉛

2020年04月15日

英語テキストで禅を学ぶ講座(5月)資料

『Zen Mind, Beginner’s Mind』 Shunryu Suzuki(鈴木俊隆)

●5月4日(月・祝日)は次からやります。
(以下31ページ) 
Control
To live in the realm of Buddha nature means to die as a ①
small being, moment after moment. When we lose our     ②
balance we die, but at the same time we also develop   p31-③

(以下はp32)
ourselves, we grow. /// Whatever we see is changing, losing its  ①
balance. The reason everything looks beautiful is because it  ②
is out of balance, but its background is always in perfect  p32-③
harmony. This is how everything exists in the realm of Buddha④
nature, losing its balance against a background of perfect ⑤
balance./// So if you see things without realizing the background⑥
of Buddha nature, everything appears to be in the       p32-⑦
form of suffering. But if you understand the background of   ⑧
existence, you realize that suffering itself is how we live,     ⑨
and how we extend our life. So in Zen sometimes we       ⑩
emphasize the imbalance or disorder of life.  ///        p32-⑪

Nowadays traditional Japanese painting has become ⑫
pretty formal and lifeless. That is why modern art has   p32-⑬
developed. Ancient painters used to practice putting dots on ⑭
paper in artistic disorder. This is rather difficult. Even   ⑮
though you try to do it, usually what you do is arranged in  ⑯
some order. You think you can control it, but you cannot:   ⑰
it is almost impossible to arrange your dots out of order. /// It ⑱
is the same with taking care of your everyday life. Even   ⑲
though you try to put people under some control, it is   p32-⑳
impossible. You cannot do it. /// The best way to control people ㉑
is to encourage them to be mischievous. Then they will be  ㉒
in control in its wider sense. To give your sheep or cow a    ㉓
large, spacious meadow is the way to control him. /// So it is ㉔
with people: first let them do what they want, and watch   ㉕
them. This is the best policy. To ignore them is not good. ㉖
That is the worst policy. The second worst is trying to ㉗
control them. The best one is to watch them, just to watch ㉘
them, without trying to control them.  ///          p32-㉙

The same way works for you yourself as well. If you want  ㉚
to obtain perfect calmness in your zazen, you should not be  ㉛
bothered by the various images you find in your mind. /// Let ㉜
them come, and let them go. Then they will be under control. ㉝
But this policy is not so easy. It sounds easy, but it     p32-㉞
requires some special effort. How to make this kind of      ㉟
effort is the secret of practice. /// Suppose you are sitting    ㊱
under some extraordinary circumstances. If you try to calm  ㊲
(以下はp33)
your mind you will be unable to sit, and if you try not to be ①
disturbed, your effort will not be the right effort. /// The only ②
effort that will help you is to count your breathing, or to    ③
concentrate on your inhaling and exhaling. We say     p33-④
concentration, but to concentrate your mind on something is not⑤
the true purpose of Zen. The true purpose is to see things as  ⑥
they are, to observe things as they are, and to let everything  ⑦
go as it goes. This is to put everything under control in its   ⑧
widest sense. /// Zen practice is to open up our small mind. So ⑨
concentrating is just an aid to help you realize “big mind,”    ⑩
or the mind that is everything. If you want to discover the    ⑪
true meaning of Zen in your everyday life, you have to      ⑫
understand the meaning of keeping your mind on your   p33-⑬
breathing and your body in the right posture in zazen. You   ⑭
should follow the rules of practice and your study should    ⑮
become more subtle and careful. Only in this way can you   ⑯
experience the vital freedom of Zen.  ///             p33-⑰

(中略。以下p34)
But perfect freedom is not found without some rules. p34-③
People, especially young people, think that freedom is to do  ④
just what they want, that in Zen there is no need for rules. /// ⑤
But it is absolutely necessary for us to have some rules. But  ⑥
this does not mean always to be under control. As long as   ⑦
you have rules, you have a chance for freedom. To try to     ⑧
obtain freedom without being aware of the rules means     ⑨
nothing. It is to acquire this perfect freedom that we practice ⑩
zazen. ///                                  p34-⑪

2020年04月28日

聖徳太子「憲法十七条」

十七条憲法 聖徳太子制定(604年)

◎第一条
一曰、以和為貴、無忤為宗。人皆有党。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。 

一(いち)に曰(いわ)く、和(わ)をもって貴(とうと)しとなす。忤(さから)うこと無(な)きを宗(むね)とす。人(ひと)みな党(とう)あり。また達者(たっしゃ)少(すく)なし。ここをもって、あるいは君(くん)父(ぷ)に順(したが)わず、また隣(りん)里(り)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわ)らぎ、下(しも)睦(むつ)びて、事(こと)を論(ろん)ずるに諧(やわ)らぎをもってするときは、事理(じり)おのずから通(つう)ず。何事(なにごと)か成(な)らざらん。

(注)諧(かい):ととのう。かなう。やわらぐ。調和する。冗談。ユーモア。第十五条にも用いられている。

 人と人とが調和していること(各自の心も和らいでいること)は、何よりも貴いことであり、他の人と反目し合わないようにすることが大切である。
 人はみなそれぞれ党派心がある。また本当に優れた者は少ない。したがって、仕えるべき主君(上司)や父(両親)に背いたり、あるいは周りの人たちと意見を違えたりすることにもなるのだ。
 しかしながら、人々が上とも下とも和らぎ睦まじくし、物事を話し合う際に、和諧(やわらぎ)をもってするならば、ことがらはおのずから通ずる。何ごとも成しとげられないことはない。

◎第二条
二曰、篤敬三宝。々々者仏法僧也。則四生之終帰、万国之極宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三宝、何以直枉。

二(に)に曰(いわ)く、篤(あつ)く三(さん)宝(ぽう)を敬(うやま)え。三(さん)宝(ぽう)とは、仏(ほとけ)と法(ほう)と僧(そう)なり。すなわち四(し)生(しょう)の終帰(よりどころ)、万国(ばんこく)の極宗(おおむね)なり。いずれの世(よ)、いずれの人(ひと)か、この法(のり)を貴(とうと)ばざらん。人(ひと)、はなはだ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし。よく教(おし)うるをもて従(したが)う。それ三宝(さんぽう)に帰(き)せずんば、何(なに)をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

(注)四生(ししょう):胎生・卵生・湿生・化生。すべての生物のこと。

 まごころをこめて三法をうやまいなさい。三宝とは、仏と法(仏の説いた教え)と、僧(仏法を学び行ずる集まり)のことである。これは生きとし生けるものの最後のよりどころであり、すべての国にとって最も大切な教えである。したがって、いずれの時代でも、いかなる人でも、この教えを尊重しないでよいということがあろうか。
 極悪の人間というのは非常に少ない。よく教え導いたならば、しっかり教えに従うものである。三宝を拠り所にする(仏法を尊ぶ)のでなければ、どうやって、曲がった心や行ないを、正しくすることができようか。

◎第三条
三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、万気得通。地欲覆天、則致壊耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。

三(さん)に曰(いわ)く、詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必(かなら)ず謹(つつし)め。君(きみ)をば天(てん)とす。臣(しん)をば地(ち)とす。天(てん)は覆(おお)い、地(ち)は載(の)す。四(しい)時(じ) 順(したが)い行(おこな)いて、万(ばん)気(き)通(かよ)うことを得(う)。地(ち)、天(てん)を覆(おお)わんとするときは、壊(やぶ)るることを致(いた)さん。ここをもって、君(きみ)言(のたま)うときは臣(しん) 承(うけたまわ)る。上(かみ) 行(おこな)うときは下(しも) 靡(なび)く。ゆえに詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必(かなら)ず慎(つつし)め。謹(つつし)まずば、おのずから敗(やぶ)れん。

君主の詔勅を受けたときには、必ずそれを謹んで受けなさい。いわば、君主は天のようなものであり、臣民たちは地のようなものである。天は上から覆い、地は下で支え載せている。春・夏・秋・冬の四季が順調に移りゆき、万物の気が、それぞれ通いあい、うまくいっているのである。
 もしも地が天を覆うようなことがあれば、破壊が起こるだけである。こういうわけだから、君主が命じたなら臣民はそれを承って実行し、上の人が行なうことに、下の人々も従って行動していく。だから君主の詔勅を受けたならば、必ず謹んで奉じなさい。もしも謹んで奉じないなら、おのずから事は失敗してしまうであろう。

◎第四条
四曰、群卿百寮、以礼為本。其治民之本、要在乎礼、上不礼、而下非斉。下無礼、以必有罪。是以、君臣有礼、位次不乱。百姓有礼、国家自治。

四(よん)に曰(いわ)く、群(ぐん)卿(けい) 百(ひゃく)寮(りょう)、礼(れい)をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治(おさ)むる本(もと)は、必(かなら)ず礼(れい)にあり。上(かみ) 礼(れい)なきときは、下(しも) 斉(ととのお)らず。下(しも) 礼(れい)なきときは、必(かなら)ず罪(つみ)あり。ここをもって、君(くん)臣(しん) 礼(れい)あるときは、位(い)次(じ) 乱(みだ)れず。百(ひゃく)姓(せい) 礼(れい)あるときは、国(こっ)家(か)おのずから治(おさ)まる。

(注)「群臣」となっている写本が多いが、日本書紀の版本に従い「君臣」を取った。第九条も同じ。

 国家の官僚や地方の役人たちは、「礼」を根本としなさい。そもそも国民を治める根本は、必ず「礼」にあるからである。上の人々に礼がなければ、下の民衆は秩序が保たれないで乱れることになる。また下の民衆のあいだで礼がなければ、必ず罪を犯すようなことが起こる。したがって、君主も、臣下である役人もともに礼があれば、社会秩序が乱れないことになるし、またもろもろの国民に礼があれば、国家はおのずから治まるものである。

◎第五条
五曰、絶饗棄欲、明弁訴訟。其百姓之訟、一日千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利為常、見賄聴讞。便有財之訟、如石投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。

五(ご)に曰(いわ)く、饗(あじわいのむさぼり)を絶(た)ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明(あき)らかに訴訟(うったえ)を弁(さだ)めよ。それ百(ひゃく)姓(せい)の訟(うったえ)は、一(いち)日(にち)に千(せん)事(じ)あり。一(いち)日(にち)すらなお爾(しか)るを、いわんや歳(とし)を累(かさ)ねてをや。このごろ訟(うったえ)を治(おさ)むる者(もの)、利(り)を得(え)るを常(つね)とし、賄(まいない)を見(み)ては讞(ことわりもうす)を聴(き)く。すなわち財(ざい)あるものの訟(うったえ)は、石(いし)をもって水(みず)に投(な)ぐるがごとし。乏(とぼ)しきものの訟(うったえ)は、水(みず)をもって石(いし)に投(な)ぐるに似(に)たり。ここをもって、貧(まず)しき民(たみ)は所由(せんすべ)を知(し)らず。臣(しん)の道(みち)またここに闕(か)く。

 役人たちは(国民から提供される賄賂的な)飲み食いの貪りをやめ、(金や色等の)欲をすてて、国民の訴訟を明白に裁かなければならない。国民のなす訴えは、一日に千件にも及ぶほど多くあるものである。一日でさえそうであるのに、まして、年を重ねてゆく間には、その数は測り知れないほど多くなる。
 このごろのありさまを見ると、訴訟を取り扱う役人たちは私利私欲を図るのがあたりまえとなって、賄賂を取って当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。
 だから財産ある人の訴えは、石を水の中に投げ入れるようにたやすく目的を達成し、反対に貧乏な人の訴えは、水を石に投げかけるように、とても聴き入れられない。こういうわけであるから、貧乏人は、何をたよりにしてよいのか、さっぱりわからなくなってしまう。これでは、臣民としての道も欠けてしまっている。

◎第六条
六曰、懲悪勧善、古之良典。是以无匿人善、見悪必匡。其諂詐者、則為覆国家之利器、為絶人民之鋒剣。亦佞媚者、対上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大乱之本也。

六(ろく)に曰(いわ)く、悪(あく)を懲(こ)らし善(ぜん)を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良(よ)き典(のり)なり。ここをもって、人(ひと)の善(ぜん)を匿(かく)すことなく、悪(あく)を見(み)ては必(かなら)ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者(もの)は、国(こっ)家(か)を覆(くつがえ)す利器(りき)なり。国(こく)民(みん)を絶(た)つ鋒(ほう)剣(けん)なり。また侫(かだ)み媚(こ)ぶる者(もの)は、上(かみ)に対(たい)しては好(この)みて下(しも)の過(あやまち)を説(と)き、下(しも)に逢(あ)いては上(かみ)の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それこれらの人(ひと)は、みな君(きみ)に忠(ちゅう)なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大(だい)乱(らん)の本(もと)なり。

 悪を懲らし善を勧めるということは、昔からの良いしきたりである。だから他人のなした善は、これをかくさないで顕し、また他人が悪をなしたのを見れば、必ずそれをやめさせて、正しくしてやれ。
 諂(へつら)ったり詐(いつわ)ったりする者は、国家を覆し滅ぼす鋭利な武器であり、国民を絶ち切る鋭い刃のある剣である。また、おもねり媚びる者は、上の人々に対しては好んで目下の人々の過失を告げ口し、また部下の人々に出会うと上役の過失をそしるのが常である。このような人は、みな主君に対しては忠心なく、国民に対しては仁徳がない。これは世の中が大いに乱れる根本なのである。

◎第七条
七曰、人各有任。掌宜不濫。其賢哲任官、頌音則起。姧者有官、禍乱則繁。世少生知。剋念作聖。事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久、社禝勿危。故古聖王、為官以求人、為人不求官。

七(なな)に曰(いわ)く、人(ひと)おのおの任(にん)あり。掌(つかさど)ること、濫(みだ)れざるべし。それ賢(けん)哲(てつ) 官(かん)に任(にん)ずるときは、頌(ほ)むる音(こえ)すなわち起(お)こり、奸(かん)者(じゃ) 官(かん)を有(たも)つときは、禍(か)乱(らん)すなわち繁(しげ)し。世(よ)に、生(う)まれながら知(し)るひと少(すく)なし。よく念(おも)いて聖(せい)となる。事(こと) 大(だい)小(しょう)となく、人(ひと)を得(え)て必(かなら)ず治(おさ)まる。時(とき) 急(きゅう)緩(かん)となく、賢(けん)に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これによりて、国(こっ)家(か)永(えい)久(きゅう)にして、社(しゃ)稷(しょく)危(あや)うからず。故(ゆえ)に古(いにしえ)の聖(せい)王(おう)、官(かん)のため人(ひと)を求(もと)む。人(ひと)のために官(かん)を求(もと)めず。

(注)社稷(しゃしょく):朝廷や国家。

 人には、おのおのその任務がある。職務に関して乱れないようにせよ。賢明な人格者が官職にあるときには、ほめたたえる声が起こり、よこしまな者が官職にあるときには、災禍や乱れがしばしば起こるものである。
 世の中には、生まれながら聡明な者は少ない。よく考え、心がけることで、聖者のようになる。およそ、ことがらの大小にかかわらず、適任者を得たならば、世の中は必ず治まるものである。時代の動きが激しいときでも、ゆるやかなときでも、立派な人物を得たときには、世の中はおのずから豊かに伸びやかになる。これによって国家は永久に栄え、危うくなることはない。
 だから、昔の立派な聖王は、官職に適した人物を求めたのであり、決してその人物のために官職を設けることはしなかったのである。

◎第八条
八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡監。終日難尽。是以、遅朝不逮于急。早退必事不尽。

八(はち)に曰(いわ)く、群(ぐん)卿(けい) 百(ひゃく)寮(りょう)、早(はや)く朝(まい)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。公(く)事(じ) 監(いとま)なし。終日(ひねもす)にも尽(つく)しがたし。ここをもって、遅(おそ)く朝(まい)るときは急(きゅう)なることに逮(およ)ばず。早(はや)く退(まか)るときは必(かなら)ず事(こと)尽(つ)くさず。

 もろもろの役人たちは、朝は早く役所に出勤し、夕はおそく退出せよ。公の仕事は、うっかりしている暇(いとま)がない。終日つとめてもなし終えがたいものである。したがって、遅く出仕したのでは緊急の事に間に合わないし、また早く退出したのでは、必ず仕事を十分になしとげないことになるのである。

◎第九条
九曰、信是義本。毎事有信。其善悪成敗、要在于信。君臣共信、何事不成。君臣无信、万事悉敗。

九(きゅう)に曰(いわ)く、信(しん)はこれ義(ぎ)の本(もと)なり。事(こと)ごとに信(しん)あるべし。それ善(ぜん)悪(あく)成(せい)敗(ばい)は必(かなら)ず信(しん)にあり。君(くん)臣(しん)ともに信(しん)あるときは、何(なに)事(ごと)か成(な)らざらん。君(くん)臣(しん) 信(しん)なきときは、万(ばん)事(じ)ことごとく敗(やぶ)れん。

 「信(まこと、まごころ)」は人の道(義)の根本である。何ごとをなすにあたっても、「信」をもってすべきである。善いことも悪いことも、成功するのも失敗するのも、必ずこの「信」があるかどうかにかかっているのである。
 君主も臣民も共に「信」をもって事にあたったならば、どんなことでも成しとげられないことはない。これに反して、君主や臣民にまごころがなければ、あらゆることがらがみな失敗してしまうであろう。

◎第十条
十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。我独雖得、従衆同挙。

十(じゅう)に曰(いわ)く。忿(こころのいかり)を絶(た)ち、瞋(おもてのいかり)を棄(す)てて、人(ひと)の違(たが)うことを怒(おこ)らざれ。人(ひと)みな心(こころ)あり。心(こころ)おのおの執(と)るところあり。彼(かれ) 是(ぜ)とすれば、我(われ)は非(ひ)とす。我(われ) 是(ぜ)とすれば、彼(かれ)は非(ひ)とす。我(われ) 必(かなら)ずしも聖(せい)にあらず。彼(かれ) 必(かなら)ずしも愚(ぐ)にあらず。ともにこれ凡(ぼん)夫(ぷ)のみ。是非(ぜひ)の理(ことわり)、詎(たれ)かよく定(さだ)むべけんや。あいともに賢(けん)愚(ぐ)なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人(ひと)は瞋(いか)るといえども、かえって我(わ)が失(あやまち)を恐(おそ)れよ。我(われ)ひとり得(え)たりといえども、衆(しゅう)に従(したが)いて同(おな)じく挙(おこな)え。

 心の中の怒りを絶ち、外に対して怒ることも捨てて、そして他の人たちが間違ったと思えても、それを怒るな。
 人は誰でも「心」がある。心があるということは、それぞれが「執する」ところがあるというとこである。他人が「正しい」とすることでも、自分は「間違いだ」と思う。自分が「正しい」とすることを、相手は「間違い」とする。
 しかし自分が必ずしも聖人なのではないし、また相手が必ずしも愚者なのでもない。両方ともに凡夫にすぎないのである。正しいとか、まちがっているとかいうことを、誰が断定できようか。お互いがともに賢や愚が入り混じって決めがたいものであることは、ちょうど丸い輪には端がないようなものである。
 それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省せよ。また自分としては正しいと思っても、多くの人々の意見を尊重して同じように行動せよ。

◎第十一条
十一曰、明察功過、賞罰必当。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿、宜明賞罰。

十(じゅう)一(いち)に曰(いわ)く、功(こう)過(か)を明(あき)らかに察(み)て、賞(しょう)罰(ばつ) 必(かなら)ず当(あ)てよ。このごろ賞(しょう)は功(こう)においてせず、罰(ばつ)は罪(つみ)においてせず。事(こと)を執(と)る群(ぐん)卿(けい)、賞(しょう)罰(ばつ)を明(あき)らかにすべし。

 功績と過失をはっきりと見きわめて、賞も罰も必ず正当であるようにせよ。ところが、このごろは、功績のない者に賞を与えたり、罪のない者を罰したりすることがある。このような仕事にあたっている役人たちは、賞罰を明らかにして評価して正当に与えるようにすべきである。

◎第十二条
十二曰、国司国造、勿斂百姓。国非二君。民無両主。率土兆民、以王為主。所任官司、皆是王臣。何敢与公、賦斂百姓。

十(じゅう)二(に)に曰(いわ)く、国司(くにのつかさ)・国造(くにのみやつこ)は、百(ひゃく)姓(せい)より斂(おさ)めとることなかれ。国(くに)に二(に)君(くん)なし。民(たみ)に両(りょう)主(しゅ)なし。率(そつ)土(ど)の兆(ちょう)民(みん)は王(おう)をもって主(しゅ)となす。所任(にんずるところ)の官司(かんし)はみなこれ王臣(おうのしん)なり。何(なん)ぞあえて公(こう)と、百(ひゃく)姓(せい)に賦斂(おさめと)らん。

 もろもろの地方長官は、その土地の国民から勝手に税を取り立ててはならない。一つの国に二人の君主はなく、国民が二人の君主をもっているわけではない。全国土の無数に多い国民は、国王を主君とするのである。官職に任命されたもろもろの役人たちはみな君主の臣下なのである。国の税金以外に、自分たちの私欲のために国民から税を取り立てるというようなことをしてよいということがあろうか。

◎第十三条
十三曰、諸任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。然得知之日、和如曽識。其以非与聞。勿防公務。

十(じゅう)三(さん)に曰(いわ)く、諸(もろもろ)の官(かん)に任(にん)ぜる者(しゃ)、同(おな)じく職(しょく)掌(しょう)を知(し)れ。あるいは病(やまい)し、あるいは使(つかい)して、事(こと)に闕(かけ)たることあらん。しかれども知(し)ることを得(う)る日(ひ)には、和(わ)すること曽(さき)より識(し)れるがごとくせよ。それ与(あずか)り聞(き)かずということをもって、公(こう)務(む)を妨(さまた)ぐることなかれ。

(注)職掌(しょくしょう):担当の職務。

 もろもろの官職に任命された者は、同じ職場に勤めている者の仕事の内容を知っておくべきである。あるいは病にかかったり、あるいは出張していて、仕事をなしえないことがあるであろう。しかしながら仕事をつかさどることができた日には、人と和してその職務につき、あたかもずっとお互いに協力していたかのごとくにせよ。(病や出張等で仕事を離れていた人が戻ってきたときには、その人が引き続き仕事できるように調えておくように。) 自分には関係のなかったことだといって公務を妨げてはならない。

◎第十四条
十四曰、群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治国。

十(じゅう)四(よん)に曰(いわ)く、群(ぐん)臣(しん) 百(ひゃく)寮(りょう)、嫉(しっ)妬(と)あることなかれ。我(われ)すでに人(ひと)を嫉(うらや)むときは、人(ひと)また我(われ)を嫉(うらや)む。嫉(しっ)妬(と)の患(うれ)え、その極(きわま)りを知(し)らず。このゆえに、智(ち) 己(おの)れに勝(まさ)るときは悦(よろこ)ばず。才(さい) 己(おの)れに優(まさ)るときは嫉(しっ)妬(と)す。ここをもって、五(ご)百(ひゃく)歳(さい)にしていまし賢(けん)に遇(あ)うとも、千(せん)載(さい)にしてひとりの聖(せい)を待(ま)つこと難(かた)し。それ聖(せい)賢(けん)を得(え)ざれば、何(なに)をもってか国(くに)を治(おさ)めん。

 もろもろの役人たちは、他人を嫉妬してはならない。自分が他人を嫉(ねた)めば、他人もまた自分を嫉む。そして嫉妬の憂いは際限のないものである。
 だから、他人の智恵が自分よりも勝れていると、それを悦ばないし、また他人の才能が自分よりも優れていると、それを嫉妬するものである。
 このゆえに、五百年たって賢人が世に出ても、また千年たってから聖人が世に現われても、それを嫉妬によってつぶしてしまうならば、ついに賢人・聖人を得ることは難しいであろう。もしも賢人・聖人を得ることができないならば、どうして国を治めることができようか。

◎第十五条
十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。

十(じゅう)五(ご)に曰(いわ)く、私(わたくし)に背(そむ)き公(おおやけ)に向(む)くは、これ臣(しん)の道(みち)なり。およそ人(ひと)、私(わたくし)あるときは必(かなら)ず恨(うら)みあり。憾(うら)みあるときは必(かなら)ず同(ととのお)らず。同(ととのお)らざるときは私(わたくし)をもって公(おおやけ)を妨(さまた)ぐ。憾(うら)み起(お)こるときは制(せい)に違(たが)い、法(ほう)を害(やぶ)る。ゆえに初(はじ)めの章(しょう)に云(い)う、上(じょう)下(げ)和(わ)諧(かい)せよ、と。それまたこの情(こころ)か。

 「私」に背を向け、「公」のために向かって進むのは、臣下たる者の道である。
 およそ人に「私」があるならば、必ず他人に対して怨恨(えんこん)の気持ちが起こる。怨恨の気持ちがあると、必ず心を同じゅうして行動することができない。心を同じゅうして行動するのでなければ、私情のために公の政務を妨げることになる。怨恨の心が起これば、制度に違反し、法を破ることになる。
 だから第一条にも、「上下ともに和らいで協力せよ」といっておいたのであるが、それもここで述べたことと同じである。

◎第十六条
十六曰、使民以時、古之良典。故冬月有間、以可使民。従春至秋、農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

十(じゅう)六(ろく)に曰(いわ)く、民(たみ)を使(つか)うに時(とき)をもってするは、古(いにしえ)の良(よ)き典(のり)なり。ゆえに、冬(ふゆ)の月(つき)に間(いとま)あらば、もって民(たみ)を使(つか)うべし。春(はる)より秋(あき)に至(いた)るまでは、農(のう)桑(そう)の節(せつ)なり。民(たみ)を使(つか)うべからず。それ農(のう)せずんば、何(なに)をか食(く)わん。桑(くわ)とらずば何(なに)をか服(き)ん。

 国民に労働力を提供させる場合には、時期を選べ、というのは、古くからの良い伝統である。ゆえに、国民を公務に使うのは、暇(いとま)のある冬の月にすべきである。しかし春から秋にいたる間は農繁期であるから、国民に労働を課してはならない。農業がなされなかったら、何を食べたらよいのか。養蚕(ようさん)がなされなかったら、衣服を着ることができないではないか。

◎第十七条
十七曰、夫事不可独断。必与衆宜論。少事是軽。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故与衆相弁、辞則得理。

十(じゅう)七(なな)に曰(いわ)く、それ事(こと)は独(ひと)り断(だん)ずべからず。必(かなら)ず衆(しゅう)とともに論(ろん)ずべし。少(しょう)事(じ)はこれ軽(かろ)し。必(かなら)ずしも衆(しゅう)とすべからず。ただ大(だい)事(じ)を論(ろん)ずるに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑(うたが)う。ゆえに衆(しゅう)と相(あい)弁(わきま)うるときは、辞(こと)すなわち理(り)を得(え)ん。

 ものごとを決断することに、一人で断定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである。小さなことがらは、それほど重要でないから、必ずしも多くの人々と議論することもない。ただ重大なことがらを議論するにあたっては、あるいは過失がありはしないかという疑いがある。だから多くの人々とともに論じ、互いに納得するようにしていけば、そのことがらが道理にかなうようになるのである。

2020年05月06日

5月24日(日)に読む『夜と霧』テキスト

●5月24日(日)(午前9時半から)は、p180から読みます。

◎『夜と霧』フランクル著。霜山徳爾訳。みすず書房。
(以下p119)
 囚人の宗教的関心は、それが生じる場合には、始めから想像以上の最も内面的なものであった。新たに入ってきた囚人はそこの宗教的感覚の活溌さと深さにしばしば感動しないではいられなかった。この点においては、われわれが遠い工事場から疲れ、凍え、びっしょり濡れたボロを着て、収容所に送り返される時にのせられる暗い閉ざされた牛の運搬貨車の中や、また収容所のバラックの隅で体験することのできる一寸(ちょっと)した祈りや礼拝は最も印象的なものだった。

【◎第七章 苦悩の冠】
(以下p165)
強制収容所にずっと長く留まることが人間に与える典型的な性格特徴を、心理学的に描写し、精神病理学的に説明しようとするこの試みは、人間の心が結局環境によって規定されるという印象を与えざるを得ないかもしれない。たとえば強制収容所では、そこでの生活が、独自な社会環境として、人間の行為を強制的に形づくるのではないだろうか。

 しかし人は当然のことながら異論をたてることができるのである。そして一体それではどこに人間の自由があるのかと問うであろう。一体与えられた環境条件に対する態度の精神的自由、行動の精神的自由は存しないのであろうか? 自然主義的な世界観や人生観が、人間は生物学的であれ、心理学的であれ、社会学的であれ、多様な規定性や条件の産物に他ならないとわれわれに信じさせようとすることは真実なのであろうか? 人間は従ってその身体的体質、その性格学的素質及びその社会的状況の偶然な結果に他ならないのだろうか。もっと具体的に言うならば、収容所生活という特殊な社会的条件の環境に対する人間の心理的反応において、人間は彼が強制的に入
(以上p165、以下p166)
れられたこの存在形式の影響から全く抜き出ることができないといえるであろうか? すなわち彼は収容所を支配していた「諸々の事情の強制の下に他のようにはできなかった」であろうか?

 さてこの問題にわれわれは経験的にも理論的にも答えることができる。経験的には収容所生活はわれわれに、人間は極めてよく「他のようにもでき得る」ということを示した。人が感情の鈍麻を克服し刺戟性を抑圧し得ること、また精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、外的にも内的にも存し続けたということを示す英雄的な実例は少くないのである。
強制収容所を経験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通って行く人間の姿を知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ――彼等は、人が強制収容所の人間から一切をとり得るかも知れないが、しかしたった一つのもの、 すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているのである。

 「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由を奪い、自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。

 あらゆる可能な視点の中で究極のものであるこの視点よりみると強制収容所内の囚人の心理的反応様
(以上p166、以下p167)
式は、ある身体的、心理的、社会的条件の単なる表現以上のものと思わざるを得ないのである――たとえ食物のカロリー不足や睡眠不足やいろいろな心理的「コンプレックス」が、人間が典型的な収容所根性に堕してしまうのを理解させるとは言え――最後の観点においては人間の内部に起ったもの、内的決断の結果が示されるのである。原則的に言えば各人はかかる状態の上でもなお、収容所において何が彼から――精神的意味で――出てくるかということを何らかの形で決断し得るのである。すなわち典型的な「収容所囚人」になるか、あるいはここにおいてもなお人間としてとどまり、人間としての尊厳を守る一人の人間になるかという決断である。

 ドストエフスキーはかつて「私は私の苦悩にふさわしくなくなるということだけを恐れた」と言った。もし人が、その収容所内での行動やその苦悩や死が今問題になっている究極のかつ失われ難い人間の内的な自由を証明しているようなあの殉教者的な人間を知ったならば、このドストエフスキーの言葉がしばしば頭に浮んでくるに違いない。彼等はまさに「その苦悩にふさわしく」あったということが言えるのであろう。彼等は義しき苦悩の中には一つの業績、内的な業績が存するということの証しを立てたのである。人が彼から最後の息を引きとるまで奪うことのできなかった人間の精神の自由は、また彼が最後の息を引きとるまで彼の生活を有意義に形成する機会を彼に見出さしめたのである。なぜならば創造的に価値を実現化することができる活動的生活や、また美の体験や芸術や自然の体験の中に充足される
(以上p167、以下p168)

 享受する生活が意義をもつばかりでなく、さらにまた創造的な価値や体験的な価値を実現化する機会が ほとんどないような生活――たとえば強制収容所におけるがごとき――でも意義をもっているのである。すなわちなお倫理的に高い価値の行為の最後の可能性を許していたのである。それはつまり人間が全く外部から強制された存在のこの制限に対して、いかなる態度をとるかという点において現われてくるのである。創造的及び享受的生活は囚人にはとっくに閉ざされている。しかし創造的及び享受的生活ばかりが意味をもっているわけではなく、生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもっているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命も死もそうである。苦難と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである!

(4月19日、ここまで。5月3日は次から)

 一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命とそれが彼に課する苦悩とを自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況にあってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである――ある人間が勇気と誇りと他人への愛を持ち続けていたか、それとも極端に尖鋭化した自己保持のための闘いにおいて彼の人間性を忘れ、収容所囚人の心理について既述したことを想起せしめるような羊群中の一匹に完全になってしまったか――その苦悩に満ちた状態と困難な運命とが彼に示した倫理的価値可能性を人間が実現化したかあるいは失ったか――そして彼が「苦悩にふ
(以上p168、以下p169)
さわしく」あったかあるいはそうでなかったか――。

 かかる考察を現実からは遠いとか世間離れしているとか考えてはいけない。確かにかかる道徳的な高さはごく僅かな人間にのみ可能であり、ごく僅かな人間だけが収容所で内的な自由について充分知っており、苦悩が可能にした価値の実現へと飛躍し得たのかもしれない。しかしそれがたった一人であったとしても――彼は人間がその外的な運命よりも内的に一層強くあり得るということの証人たり得るのである。しかもかかる証明は多かったのである。

 そしてそれは強制収容所においてばかりではない。人間は到る処で運命に対決せしめられるのであり、単なる苦悩の状態から内的な業績をつくりだすかどうかという決断の前に置かれるのである。たとえば病める人間の、特に治癒の見込みのない人間の運命を考えて欲しい。私自身かつてある比較的若い患者の手紙を読まして貰ったことがある。そのうちで彼はその友に宛てて、自分はもう生きられないこと、手術も彼を救えないことを知ったと書いていた。しかし彼はさらに書き続けて、自分は、勇気と品位を保ちながら死に向って行った一人の男が描かれているある映画を思い出したが、当時自分はこの映画を見て、かくもしっかりと死に向えることは「天の賜物」だと考えたが、今や運命は自分にもこのチャンスを与えてくれた、と書いているのであった。

 またその当時トルストイの原作による「復活」という別な映画を見た人が、ここにこそ偉大な運命が あり偉大な人間が描かれているといい、ただわれわれにはそんな運命は恵まれず、かつかかる人間的偉
(以上p169、以下p170)
大さに成長する機会をもっていないと考え――その上映が終ってから近くのカフェーでサンドウィッチとコーヒーを飲みながら、一瞬間だけ意識をよぎったさっきの形而上的な想いを忘れてしまうといったことは幾らでもみられた。しかしその人間自身が今度は自ら大きな運命の上に立たされ、自己の内的な偉大さで向わねばならない決断の前に置かれるとすると彼はもはや以前考えたことをすっかり忘れて諦めてしまうのである――。

 しかし彼がいつかふたたび映画館に坐り、同じような映画が上映されるのを見るようなことがあったとすれば、彼の心の目の前には同時に想い出のフィルムが廻り、感傷的な映画作品よりも遙かに偉大なことをその生涯において実現化した収容所のある人々を想い出すであろう。そして人間の内的な偉大さを示す幾つかのエピソードのあれこれの細かい内容を想い起すであろう。

 私自身もたとえばこの目でみた強制収容所におけるある一人の若い女性の死を想い出すのである。その話は単純であり、多く語るを要しないのであるが、それにも拘わらずまるで創作されたように詩的な響きをもっているように思われるのである。

 この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされて
(以上p170、以下p171)
いましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。」と彼 女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蠟燭(ろうそく)のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄(せんもう)状態で幻覚を起しているのだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしました?――しましたって!――では何て樹は言ったのですか?」 彼女は答えた。「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私はここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ……。」

 既述のように強制収容所の人間における内面的生活の崩壊の究極的な理由は、種々数えあげられた心理的身体的原因の中に存しないで、ある自由な決断に基づくものだとすれば、このことはもっとも詳細に述べられなくてはならない。収容所の囚人についての心理学的観察は、まず最初に精神的人間的に崩壊していった人間のみが、収容所の世界の影響に陥ってしまうということを示している。またもはや内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている。ではこの内的な拠り所とはどこに存するべきであり、どこに存し得るのであろうか? これがいまやわれわれの
(以上p171、以下p172)
問題なのである。

 かつての収容所囚人の体験の報告や談話が一致して示していることは、収容所において最も重苦しいことは囚人がいつまで自分が収容所にいなければならないか全く知らないという事実であった。彼は釈放期限などというものを全く知らないのである。釈放期限は――もしそれが問題になるとしたら(たとえばわれわれの収容所では一度だってこんなことは論じられたことはなかった)――全く不明で、収容期限は限りなく長いものになるのであった。ある著名な心理学者が、収容所における存在様式は「仮りの存在」と名づけられ得るということを指摘したが、われわれはこの特徴の指摘を次のように言って補いたいと思う。すなわち強制収容所における囚人の存在は「期限なき仮りの状態」と定義されるのである。

 新入りの囚人が収容所にやってくると彼等は通常そこを支配している状態について何らの真実も知っていないのであった。収容所から帰ってきたものがあったとしても彼は沈黙していなければならなかったし、またある収容所からはまだ誰も戻ってきたことはないのであった。……収容所に入って行くと共に彼の心内風景は変って行くのである。すなわち未知が終ると共に……今度は終りの未知がもうやってくるのである。この存在形式が終るのか、終らないのか、終るならばいつ終るかは全く見究めることができないのである。

(●5月3日、ここまで。5月10日は次から)

(以下p173)
 ラテン語の finis という言葉は周知のごとく二つの意味をもっている。すなわち終りということと目的ということである。ところで彼の(仮の)存在形式の終りを見究めることのできない人間は、また目的に向って生きることもできないのである。彼は普通の人間がするように将来に向って存在するということはもはやできないのである。

 そしてそのことによって彼の内的生活の全構造が変化するのである。かくして内的な崩壊現象が生じるのであり、われわれはすでに別な生活状態において、たとえば失業者において、彼が似たような心理的状態になるのを知っている。失業者の存在は仮りのものになり、彼もまた未来をさして、また未来における目的をさして生きることはできないのである。失業した鉱山労働者についての一連の心理的研究は、この変型した存在形式の、時間体験(心理学的に内的時間とか体験時間とか呼ばれている)への影響を正確に調べたことがあった。

 収容所では比較的小さな時間間隔は ―― たとえば一日は ―― 毎時毎時になされる悪意ある難癖に充たされて ―― ほとんど限りなく続くように囚人には思われるのである。しかしより大きな時間間隔は ―― たとえば週は ―― 気味悪い程早く過ぎ去って行くように思われるのである。だから私が、収容所では一日の長さは一週間よりも長いと言った時、私の仲間はいつも賛成してくれた。それほど時間体験は無気味な逆説的なものであった。

(以下p174)
 このことに連関して、たとえばトーマス・マンの小説「魔の山」で描かれている適切な心理学的観察を想起することができる。「魔の山」では、いま扱っている強制収容所の囚人とやや比喩的に類似した状況にある人々、すなわち結核療養所の入所患者で、同様に退院の期限を知らず、同様に「未来を失って」、すなわち未来の目的に向けられていない存在を送っている人々の心理的な変化が描かれているのである。

 当時新しく到着した囚人の長い列に入って停車場から収容所へ行進した収容所囚人の一人は後に私に当時のことを述懐して、自分はあたかも自分自身の屍(し)体(たい)の後から進んでゆくかのようだったと言った。 それほど彼は当時、その絶対的な未来の喪失を体験したのだった。それは彼の全生活をただ過去の観点からのみ眺め、ある過ぎ去ったもの ―― 丁度死人のそれのごとく ―― とみなすことを彼に強いたのである。しかし「生ける屍」であるというこの体験はさらにもっと他の理由で一層深くなるのである。すなわち次第に収容所に留められる期間の無限性が感じられると共に、また空間の制限が、すなわち閉じこめられているということが感じられてくるのである。鉄条網の外部に存するものは間もなく近寄り難いものになり、ついには何か非現実的なもののように見えてくるのである。外部での出来事、収容所外の人間、外のすべての正常な生活、これらすべては収容所にいる者には何か亡霊のようなこの世ならぬものに思われてくるのである。囚人が外部の世界を一瞥(いちべつ)できるような時には、彼はそこでの生活をまるで

(以下p175)
死者が「あの世」から世界を見下しているように眺めるのであった。従って囚人は正常な世界に対して次第にあたかもこの「世界」が存在しなくなったかのような感情をもたざるを得なくなるのである。

 強制収容所における内的な生活理想は、人間的に崩壊してしまった人間にとっては過去への回顧的な存在様式になるのであった。なぜならば彼はもはや何の拠り所も未来におけるある目的点に持たないからである。この過去への回顧の傾向については他の所でわれわれはすでに述べた。それは現在とそのすさまじさを補償するのに役立つのである。しかし現在、すなわち周囲の現実の価値低下ということは、道徳的に見ればある危険を内包しているのである。すなわちその時には現実をつくりあげること ―― 多くの英雄的例が示すごとく、収容所生活においてもなおそれは何らかの形で存した ―― の尊重すべき価値が見過ごされやすいからである。囚人の仮りの存在様式に相応じている現実の完全な価値低下は、囚人に自らを放棄し低下せしめるようにいざなうのである。―― なぜならばいずれにせよ「すべては目的がない」からである。かかる人々は、著しく困難な外的状況こそ人間に内面的に自らを超えて成長する機会を与えるものだということを忘れているのである。収容所生活の外的な困難さを内的な試練の試みに変える代りに、彼等は現在の存在を真面目に受けとらず、それをある重要でないものに貶しめ、過去の生活に想いを寄せることによって現在の前では目を閉じるのが最もよいと考えるのである。囚人として過ごす時間の言語に絶する多くの艱難の下で、ある倫理的な高みに飛躍することなくして、…… 原則

(以下p176)
としてしようと思えばできたことだが……かかる人間の生活は次第に埋れて行ってしまうのであった。もちろんかかる高い飛翔は少数の人間にのみ可能であった。しかし彼等はその外面的な挫折や、また死においてさえも、以前の日常生活で恐らく決して到達したことのないであろう人間的偉大に達することができたのである。一方その他のわれわれ微温的な中等程度の者にとってはビスマルクの警句があてはまった。すなわちビスマルクはかつて「人生とは歯医者にかかっているようなものだ。すなわちこれからが本ものになると思っている間にもうすんでしまうのだ。」と言った。それを少し変化させてこういえるであろう。すなわち強制収容所にいる多くの人間は価値を実現化する真の可能性はまだ先であると考えたのである。―― しかし実際はこの可能性は収容所のこの生活から生じるものの中にあったのである。―― すなわち多くの囚人の如く貧しい生存をするか、あるいは少数の稀な人々の如く内的な勝利かである。

(以下p177)
【◎第八章 絶望との闘い】
 収容所生活が囚人にもたらした精神病理学的現象を心理療法や精神衛生の見地から治療しようとする すべての試みにおいて、収容所の中の人間に、ふたたび未来や未来の目的に目を向けさせることが内的 に一層効果をもつことが指摘されているのである。また本能的に若干の囚人は自らにこの試みを行ったのであった。彼等はおおむね何か拠り所にするものを持ち、また一片の未来を問題としていた。人間は本来ただ未来の視点からのみ、すなわち何らかの形で「永遠の相の下に」存在し得るということは人間 に固有なことなのである。従って彼は彼の存在の最も困難な瞬間にこの未来の視点へ逃避することも一 方では多いのである。これはしばしばあるトリックの形で行われる。私自身に関しても次のような体験 を想い出すのである。すなわち破れ靴の中で泥だらけになっている傷ついた足の痛みに殆んど泣きながら、私はひどい寒さと氷のような向い風の中を長い縦列をなして収容所から数キロ離れた労働場までよろめいて行った。私の心は絶え間なくわれわれの哀れな収容所生活の無数の小さな問題にかかずらって

(以下p178)
いた。今晩の食事には何が与えられるだろうか? おそらく追加として与えられるであろう一片のソーセージをパンの一片と取りかえた方がよいだろうか? 二週間前私に報償として「特給」された最後の 煙草をスープ一杯と取引きすべきだろうか? どうして切れてしまった靴紐の代りに鉄条網の切端をみつけるべきか? 労働場で自分がよく慣れた労働グループにうまく入れるだろうか、それとも他のグループに入れられて、怒りっぽい苦しめる監督の下で殴られるだろうか? また収容所労働者として収容所の中で働き、もはや毎日この恐ろしい行進をしなくてもすむ ―― といったあてもない幸福を実現するために、あるカポーとよい関係になるにはどうしたらよいのだろうか?

 私のあらゆる思考が毎日毎時苦しめられざるを得ないこの残酷な強迫に対する嫌悪の念に私はもう耐えられなくなった。そこで私は一つのトリックを用いるのであった。突然私自身は明るく照らされた美しくて暖い大きな講演会場の演壇に立っていた。私の前にはゆったりとしたクッション の椅子に興味深く耳を傾けている聴衆がいた。……そして私は語り、強制収容所の心理学についてある講演をしたのだ った。そして私をかくも苦しめ抑圧するすべてのものは客観化され、科学性のより高い見地から見られ 描かれるのであった。――このトリックでもって私は自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の上に置くことができ、またあたかもそれがすでに過去のことであるかのようにみることが可能になり、また苦悩する私自身を心理学的、科学的探究の対象であるかのように見ることができたのである。スピノ

(以下p179)
ザはそのエチカの中で次のように言っている。「苦悩という情緒はわれわれがそれに関して明晰判明な表象をつくるや否や消失してしまうのである。」(エチカ、五ノ三、「精神の力あるいは人間の自由について」)

 これに対して一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。このことは一種の危機の形でしばしばかなり急激に起きることもあった。そしてその危機の現われ 方はかなり経験のある囚人にはよく知られていた。われわれ各自はこの危険が始めて現われる時を 自分自身に対してよりもむしろ友のために――恐れるのであった。通常これは次のような形で始まった。 その当の囚人はある日バラックに寝たままで横たわり、衣類を着替えたり手洗いに行ったり点呼場に行ったりするために動こうとはしなくなるのである。何をしても彼には役立たない。何ものも彼をおどかすことはできない――懇願しても威嚇しても殴打してもすべては無駄である。彼はまだそこに横たわり、殆んど身動きもしないのである。そしてこの危機を起したのが病気であれば、彼は病舎に運んで行かれるのを拒絶するのであり、あるいは何かして貰うのを拒絶するのである。彼は自己を放棄したのである! 彼自身の糞尿にまみれて彼はそこに横たわり、もはや何ものも彼をわずらわすことはないのである。

●5月24日(日)午前9時半開始、はここから。
(以下p180)
 このやがて死んでしまう自己放棄及び自己崩壊と、他方未来体験の喪失との間にどんなに本質的な連関が存するかが、私の目の前で一度劇的に演ぜられたことがあった。

 私の所の囚人代表は――かなり知られていた外国の作曲家及び脚本家であったが――ある日私にそっと秘密を打ち明けた。「ねえ、ドクター、私は君に話したいことがある。最近奇妙な夢を見たのだ。ある声が聞えて私に何でも望んでよい と言ったのだ……つまり知りたいことを何でもいえば、その声はそれに答えてくれるというのだ。ところで私が何を訊いたかと思うね、私は私にとって戦争がいつ終るかを知りたかったのだ。ドクター。私にとってという意味が判るかね、つまりわれわれがいつ収容所から解放されるだろうか、従っていっわれわれの苦悩が止むのかということを知りたかったのだ。」

 彼はいつその夢を見たのかと私は尋ねた。「1945年の2月だ。」と彼は答えた。(当時は3月の始めだった。) そして夢の声は君に何と答えたのか、と私はさらに尋ねた。小さな声で彼は私に囁いた。「3月30日……」[霜山訳で「5月」と誤訳されているので訂正した]

 この仲間Fが彼の夢について私に語った時、彼はまだ希望に満ちており、彼の夢の声の言ったことは 正しいであろうと確信していた。一方その声によって予言された期限はどんどん近づいてきた――そして軍事情勢について収容所に入ってくる情報によれば、戦線が実際五月の中にわれわれを解放してくれる可能性はますます少くなっていくようであった。すると次の事が起った。3月29日にFは突然高熱を出して発病した。そして3月30日――すなわち予言に従えば戦争と苦悩が「彼にとって」終る日に

(以下p181)
―― Fはひどい譫妄(せんもう)状態に陥り始め、そして終に意識を失った。……3月31日に彼は死んだ。彼は発疹(ほっしん)チブスで死んだのである。

 勇気と落胆、希望と失望というような人間の心情の状態と、他方では有機体の抵抗力との間にどんなに緊密な連関があるかを知っている人は、失望と落胆へ急激に沈むことがどんなに致命的な効果を持ち得るかということを知っている。私の仲間のFは期待していた解放の時が当らなかったことについての深刻な失望がすでに潜伏していた発疹チブスに対する彼の身体の抵抗力を急激に低下せしめたことによって死んだのである。彼の未来への信仰と意志は弛緩し、彼の肉体は疾(しっ)患(かん)にたおれたのであった。……かくして結局彼の夢は正しかったのである。

 この一例の観察とそれから出てくる結論とはかつてわれわれの収容所の医長が私に注意してくれた次の事実と合致するのである。すなわち1944年のクリスマスと1945年の新年との間にわれわれは収容所では未だかつてなかった程の大量の死亡者が出ているのである。彼の見解によれば、それは苛酷な労働条件によっても、また悪化した栄養状態によっても、また悪天候や新たに現われた伝染疾患によっても説明され得るものではなく、むしろこの大量死亡の原因は単に囚人の多数がクリスマスには家に帰れるだろうという、世間で行われる素朴な希望に身を委せた事実の中に求められるのである。クリスマスが近づいてくるのに収容所の通報は何ら明るい記事を載せないので、一般的な失望や落胆が囚人を

(以下p182)
打ち負かしたのであり、囚人の抵抗力へのその危険な影響は当時のこの大量死亡の中にも示されているのである。

 既述の如く強制収容所における人間を内的に緊張せしめようとするには、先ず未来のある目的に向って緊張せしめることを前提とするのである。囚人に対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくニーチェの「何故生きるかを知っている者は、殆んどあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。」という言葉が最も適切であろう。すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい「如何に」(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねばならないのである。

 反対に何の生活目標をももはや眼前に見ず、何の生活内容ももたず、その生活において何の目的も認めない人は哀れである。彼の存在の意味は彼から消えてしまうのである。そして同時に頑張り通す何らの意義もなくなってしまうのである。

 このようにして全く拠り所を失った人々はやがて倒れて行くのである。あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼等の典型的な口のきき方は、普通次のようであった。「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」これに対して人は如何に答えるべきであろうか。

(以下p183)
 ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。
哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。

 すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。

 人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果すこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

 この日々の要求と存在の意味とは人毎に変るし、また瞬間毎に変化するのである。従って人生の生活の意味は決して一般的に述べられないし、この意味についての問いは一般的には答えられないのである。ここで意味される人生は決して漠然としたものではなく、常にある具体的なものである。各人にとって唯一つで一回的である人間の運命は、この具体性を伴っているのである。如何なる人間、如何なる運命も他のそれと比較され得ないのである。如何なる状況も繰り返されないのである。そしてその状況ごとに人間は異なった行動へと呼びかけられているのである。彼の具体的な状況はある場合には彼から積極

(以下p184)
的に運命を形成する創造的活動を求め、ある時には体験しつつ(享受しつつ)ある価値可能性を実現化することを求め、また時には運命を――既述のように「彼の十字架」として――率直に自らに担うことを要求するのである。しかしどの状況もその一回性と唯一性とによって特徴づけられているのであり、それは具体的な状況の中に含まれているのである。

 ところで具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩の中にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならないのである。人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人一回だけ立っているという意識にまで達せねばならないのである。何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。何人も彼の代りに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。まさにその運命に当った彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。

 強制収容所にいるわれわれにとってはそれは決して現実離れのした思弁ではなかった。かかる考えはわれわれを救うことのできる唯一の考えであったのである! 何故ならばこの考えこそ生命が助かる何の機会もないような時に、われわれを絶望せしめない唯一の思想であったからである。素朴に考えられるような人生の意味といった問題からわれわれは遠く離れていたのであり、創造的な活動がある目的を実現するなどということは思いも及ばなかったからである。われわれにとって問題なのは死を含んだ生

(以下p185)
活の意義であり、生命の意味のみならず苦悩と死のそれとを含む全体的な生命の意義であったのである。

 苦悩の意味が明らかになった以上、われわれは収容所生活における多くの苦悩を単に「抑圧」したり、あるいは安易な、または不自然なオプティミズムでごまかしたりすることで柔らげるのを拒否するのである。われわれにとって苦悩も一つの課題となったのであり、その意味性に対してわれわれはもはや目を閉じようとは思わないのである。苦悩もわれわれの業績であるという性質をもっているのであり、それこそリルケをして「苦悩の極みによって如何に昻(たか)められし」とうたわせたものなのである。

 全くわれわれにとって苦悩し抜くこと、「苦悩の極みによって昻められ」うることは充分あったのである。従って必要なのはそれをいわば直視することであった。もちろんそこには「気が弱く」なる危険や、秘かに涙を流したりすることもあるであろう。しかし彼はこの涙を恥じる必要はないのである。むしろそれは彼が苦悩への勇気という偉大な勇気をもっていることを保証しているのである。しかしそのことを知る人は少く、多くの人は恥じながら彼が何度も泣き抜いたことを告白するのである。……私がかつて、どうして彼の飢餓浮腫が癒ったかを聞いたある友は、比喩的に次のように云った。「私がそれに泣き抜いたからです。」

 強制収容所における心理治療や精神衛生の試みの萠芽は、それが可能であれば個人的にもでき、また グループでもできた。個人的な心理治療的な試みについて云えば、それはしばしば緊急な、生命を救う
(以上p185)

「処置」を必要とした。

2020年05月15日

5月16日(土)英語テキストで禅を学ぶ講座テキスト

『Zen Mind, Beginner’s Mind』 Shunryu Suzuki(鈴木俊隆)

●5月4日(月・祝日)は次からやります。
(以下31ページ) 
Control
To live in the realm(領域) of Buddha nature means to die as a ①
small being, moment after moment. When we lose our     ②
balance we die, but at the same time we also develop   p31-③

(以下はp32)
ourselves, we grow. /// Whatever we see is changing, losing its①
balance. The reason everything looks beautiful is because it  ②
is out of balance, but its background is always in perfect  p32-③
harmony. This is how everything exists in the realm of Buddha④
nature, losing its balance against a background of perfect ⑤
balance./// So if you see things without realizing the background⑥
of Buddha nature, everything appears to be in the       p32-⑦
form of suffering(苦しむこと). But if you understand the background of   ⑧
existence, you realize that suffering itself is how we live,     ⑨
and how we extend(伸ばす) our life. So in Zen sometimes we       ⑩
emphasize(強調する) the imbalance or disorder(不秩序) of life.  ///        p32-⑪

Nowadays traditional Japanese painting has become ⑫
pretty formal and lifeless. That is why modern art has   p32-⑬
developed. Ancient painters used to practice putting dots on ⑭
paper in artistic disorder. This is rather difficult. Even   ⑮
though you try to do it, usually what you do is arranged in  ⑯
some order. You think you can control it, but you cannot:   ⑰
it is almost impossible to arrange your dots out of order. /// It ⑱
is the same with taking care of your everyday life. Even   ⑲
though you try to put people under some control, it is   p32-⑳
impossible. You cannot do it. /// The best way to control people㉑
is to encourage them to be mischievous(いたずら好きな). Then they will be  ㉒
in control in its wider sense. To give your sheep or cow a    ㉓
large, spacious meadow(牧草地) is the way to control him. /// So it is㉔
with people: first let them do what they want, and watch   ㉕
them. This is the best policy. To ignore them is not good. ㉖
That is the worst policy. The second worst is trying to ㉗
control them. The best one is to watch them, just to watch ㉘
them, without trying to control them.  ///          p32-㉙

The same way works for you yourself as well. If you want  ㉚
to obtain(獲得する) perfect calmness(落ち着き) in your zazen, you should not be  ㉛
bothered(悩ませる) by the various images you find in your mind. /// ㉜

【●5月16日(土)午後3時半開始】はここから。
Let them come, and let them go. Then they will be under control.㉝
But this policy is not so easy. It sounds easy, but it     p32-㉞
requires some special effort. How to make this kind of      ㉟
effort is the secret of practice. /// Suppose you are sitting  ㊱
under some extraordinary(異常な) circumstances(環境). If you try to calm  ㊲
(以下はp33)
your mind you will be unable to sit, and if you try not to be ①
disturbed(妨害する), your effort will not be the right effort. /// The only②
effort that will help you is to count your breathing, or to    ③
concentrate on your inhaling(息を吸う) and exhaling(息を吐く). We say     p33-④
concentration, but to concentrate your mind on something is not⑤
the true purpose of Zen. The true purpose is to see things as  ⑥
they are, to observe things as they are, and to let everything  ⑦
go as it goes. This is to put everything under control in its   ⑧
widest sense. /// Zen practice is to open up our small mind. So ⑨
concentrating is just an aid to help you realize “big mind,”    ⑩
or the mind that is everything. If you want to discover the   ⑪
true meaning of Zen in your everyday life, you have to      ⑫
understand the meaning of keeping your mind on your   p33-⑬
breathing and your body in the right posture in zazen. You   ⑭
should follow the rules of practice and your study should    ⑮
become more subtle and careful. Only in this way can you  ⑯
experience the vital freedom of Zen.  ///             p33-⑰

◎参考:道元禅師の言葉
小乗は元、二門有り。所謂、数息不浄なり。小乗人は数息を以て、調息と為す。然れども、仏祖の弁道は永く小乗に異なり。
仏祖曰く、白癩野干の心を発すと雖も、二乗自調の行を作すこと莫れ。其の二乗とは如今、世に流布する、四分律宗、倶舎宗等の宗是なり。大乗も亦、調息の法有り。所謂、是の息は長、是の息は短と知る。乃ち大乗調息の法なり。

(中略。以下p34)
But perfect freedom is not found without some rules. p34-③
People, especially young people, think that freedom is to do  ④
just what they want, that in Zen there is no need for rules. /// ⑤
But it is absolutely necessary for us to have some rules. But  ⑥
this does not mean always to be under control. As long as   ⑦
you have rules, you have a chance for freedom. To try to   ⑧
obtain freedom without being aware of the rules means      ⑨
nothing. It is to acquire this perfect freedom that we practice ⑩
zazen. ///                                  p34-⑪

◎参考:ウィリアム・ジェイムズの「ベストマニュアル」
7. To wrestle(取り組む) with a bad feeling only pins(留める) our attention on it, and keeps it still fastened(留める) in the mind: whereas, if we act as if from some better feeling, the old bad feeling soon folds(折りたたむ) its tent like an Arab, and silently steals(ひそかに) away(離れる).

8. The best manuals of religious devotion(献身・専念・帰依) accordingly(それゆえに) reiterate(繰り返す) the maxim(格言・金言) that we must let our feelings go, and pay no regard to them whatever(全く). In an admirable and widely successful little book called 'The Christian's Secret of a Happy Life,' by Mrs. Hannah Whitall Smith, I find this lesson on almost every page.

9. "Act faithfully, and you really have faith, no matter how cold and even how dubious(疑い深い) you may feel." It is your purpose God looks at, not your feelings about that purpose; and your purpose, or will, is therefore the only thing you need attend(気をつける) to....

10. Let your emotions come or let them go, just as God pleases, and make no account(無視する) of them either(いずれ) way(にせよ). They really have nothing to do with the matter.  They are not the indicators(指標) of your spiritual state, but are merely the indicators of your temperament(気性・気質) or of your present physical condition."

2020年05月15日

英語テキストで禅を学ぶ講座5月31日テキスト

『Zen Mind, Beginner’s Mind』 Shunryu Suzuki(鈴木俊隆)


●5月31日(日)午前9時半から:次からやります。
(以下40ページ) 

◎第6章 The Marrow of Zenから

Suppose your children are suffering from a hopeless ③disease. You do not know what to do; you cannot lie in bed. ④Normally the most comfortable place for you would be a⑤warm comfortable bed, but now because of your mental ⑥agony you cannot rest. You may walk up and down, in and ⑦out, but this does not help. ///

 

Actually the best way to relieve ⑧your mental suffering is to sit in zazen, even in such a      ⑨confused state of mind and bad posture. ///

If you have no ⑩experience of sitting in this kind of difficult situation you   ⑪are not a Zen student. No other activity will appease(やわらげる) your  ⑫suffering. ///

 

In other restless positions you have no power to ⑬accept your difficulties, but in the zazen posture which you  ⑭have acquired by long, hard practice, your mind and body  ⑮have great power to accept things as they are, whether they  ⑯are agreeable(同意できる) or disagreeable. ///  p40-⑰

 

When you feel disagreeable it is better for you to sit. ⑱There is no other way to accept your problem and work on ⑲it. Whether you are the best horse or the worst, or whether   ⑳your posture is good or bad is out of the question. Everyone  ㉑can practice zazen, and in this way work on his problems    ㉒and accept them.  ///  p40-㉓

 

When you are sitting in the middle of your own problem,   ㉔which is more real to you: your problem or you yourself ?    ㉕The awareness that you are here, right now, is the ultimate  ㉖fact. This is the point you will realize by zazen practice. In  ㉗continuous practice, under a succession(連続) of agreeable and    ㉘disagreeable situations, you will realize the marrow(真髄) of Zen   ㉙and acquire its true strength.  ///   p40-㉚

 

◎第8章 BOWING

After zazen we bow to the floor nine times. By bowing we p43-①are giving up ourselves. To give up ourselves means to give    ②up our dualistic ideas. So there is no difference between③zazen practice and bowing. ///

 

Usually to bow means to pay our ①respects to something which is more worthy of respect than p44-②ourselves. But when you bow to Buddha you should have no ③idea of Buddha, you just become one with Buddha, you are     ④already Buddha himself. When you become one with ⑤Buddha, one with everything that exists, you find the true   ⑥meaning of being. When you forget all your dualistic ideas,  ⑦everything becomes your teacher, and everything can be the  ⑧object of worship. /// p44-⑨

 

When everything exists within your big mind, all dualistic  ⑩relationships drop away. There is no distinction between    ⑪heaven and earth, man and woman, teacher and disciple.    ⑫Sometimes a man bows to a woman; sometimes a woman    ⑬bows to a man. Sometimes the disciple bows to the master;  ⑭sometimes the master bows to the disciple. A master who   ⑮cannot bow to his disciple cannot bow to Buddha.  ⑯Sometimes the master and disciple bow together to Buddha. ⑰Sometimes we may bow to cats and dogs. ///   ⑱

 

In your big mind, everything has the same value. Everything ⑲is Buddha himself. You see something or hear a sound,  ⑳and there you have everything just as it is. In your practice   ㉑you should accept everything as it is, giving to each thing     ㉒the same respect given to a Buddha. Here there is Buddhahood. ㉓

2020年05月26日

6月21日英語テキストで禅を学ぶ講座テキスト

『Zen Mind, Beginner’s Mind』 Shunryu Suzuki(鈴木俊隆)

●6月21日(日)午前9時半から: p44-⑲からやります。

◎第8章 BOWING
After zazen we bow to the floor nine times. By bowing we p43-①
are giving up ourselves. To give up ourselves means to give    ②
up our dualistic ideas. So there is no difference between     ③

zazen practice and bowing. /// Usually to bow means to pay our ①
respects to something which is more worthy of respect than p44-②
ourselves. But when you bow to Buddha you should have no ③
idea of Buddha, you just become one with Buddha, you are     ④
already Buddha himself. When you become one with     p44-⑤
Buddha, one with everything that exists, you find the true   ⑥
meaning of being. When you forget all your dualistic ideas,  ⑦
everything becomes your teacher, and everything can be the  ⑧
object of worship. ///              p44-⑨

When everything exists within your big mind, all dualistic  ⑩
relationships drop away. There is no distinction between    ⑪
heaven and earth, man and woman, teacher and disciple.    ⑫
Sometimes a man bows to a woman; sometimes a woman    ⑬
bows to a man. Sometimes the disciple bows to the master;  ⑭
sometimes the master bows to the disciple. A master who   ⑮
cannot bow to his disciple cannot bow to Buddha.       p44-⑯
Sometimes the master and disciple bow together to Buddha. ⑰
Sometimes we may bow to cats and dogs. ///           ⑱

(●5月31日ここまで。6月21日は次から。)

In your big mind, everything has the same value. Everything ⑲
is Buddha himself. You see something or hear a sound,    p44-⑳
and there you have everything just as it is. In your practice   ㉑
you should accept everything as it is, giving to each thing     ㉒
the same respect given to a Buddha. Here there is Buddhahood. ㉓Then Buddha bows to Buddha, and you bow to yourself.       ㉔
This is the true bow. ///             p44-㉕

If you do not have this firm conviction of big mind in your   ㉖
practice, your bow will be dualistic. When you are just yourself, ㉗
you bow to yourself in its true sense, and you are one      p44-㉘
with everything. Only when you are you yourself can you    ㉙
bow to everything in its true sense. Bowing is a very serious  ㉚
practice. You should be prepared to bow even in your last    ㉛
moment; when you cannot do anything except bow, you    p44-㉜
should do it. This kind of conviction is necessary. /// Bow with ㉝
this spirit and all the precepts, all the teachings are yours,    ㉞
and you will possess everything within your big mind. ///   p44-㉟
 
Sen no Rikyu, the founder of the Japanese tea ceremony,   ㊱
committed hara-kiri (ritual suicide by disembowelment) in    ㊲

1591 at the order of his lord, Hideyoshi. Just before Rikyu  p45-①
took his own life he said, “When I have this sword there is     ②
no Buddha and no Patriarchs.” He meant that when we have   ③
the sword of big mind, there is no dualistic world. The only   ④
thing which exists is this spirit. /// This kind of imperturbable ⑤
spirit was always present in Rikyu's tea ceremony. He never  ⑥
did anything in just a dualistic way; he was ready to die in    ⑦
each moment. In ceremony after ceremony he died, and he   ⑧
renewed himself. This is the spirit of the tea ceremony. This  ⑨
is how we bow. ///           p45-⑩

My teacher had a callus on his forehead from bowing. He    ⑪
knew he was an obstinate, stubborn fellow, and so he bowed   ⑫
and bowed and bowed. The reason he bowed was that inside  ⑬
himself he always heard his master's scolding voice. He had   ⑭
joined the Soto order when he was thirty, which for a     p45-⑮
Japanese priest is rather late. When we are young we are less ⑯
stubborn, and it is easier to get rid of our selfishness. So his   ⑰
master always called my teacher “You-lately-joined-fellow,"     ⑱
and scolded him for joining so late. Actually his master    p45-⑲
loved him for his stubborn character. When my teacher was   ⑳
seventy, he said, “When I was young I was like a tiger, but     ㉑
now I am like a cat!” He was very pleased to be like a cat. /// p45-㉒

Bowing helps to eliminate our self-centered ideas. This is    ㉓
not so easy. It is difficult to get rid of these ideas, and bowing   ㉔
is a very valuable practice. The result is not the point; it   p45-㉕
is the effort to improve ourselves that is valuable. There is    ㉖
no end to this practice. ///            p45-㉗

Each bow expresses one of the four Buddhist vows. These  ㉘
vows are: “Although sentient beings are innumerable, we   p45-㉙
vow to save them. Although our evil desires are limitless,    ㉚
we vow to be rid of them. Although the teaching is limitless,  ㉛
we vow to learn it all. Although Buddhism is unattainable,   ㉜
we vow to attain it.” If it is unattainable, how can we       ㉝
attain it? But we should! That is Buddhism. ///       p45-㉞

To think, “Because it is possible we will do it,” is not Buddhism.㉟
Even though it is impossible, we have to do it because  p45-㊱
our true nature wants us to. But actually, whether or not it   ㊲

is possible is not the point. If it is our inmost desire to get  p46-①
rid of our self-centered ideas, we have to do it. When we ②
make this effort, our inmost desire is appeased and Nirvana    ③
is there. /// Before you determine to do it, you have difficulty,  ④
but once you start to do it, you have none. Your effort     p46-⑤
appeases your inmost desire. There is no other way to attain   ⑥
calmness. Calmness of mind does not mean you should stop   ⑦
your activity. Real calmness should be found in activity   p46-⑧
itself. We say, “It is easy to have calmness in inactivity, it is   ⑨
hard to have calmness in activity, but calmness in activity is   ⑩
true calmness.” ///              p46-⑪

After you have practiced for a while, you will realize that    ⑫
it is not possible to make rapid, extraordinary progress.    p46-⑬
Even though you try very hard, the progress you make is      ⑭
always little by little. It is not like going out in a shower in  ⑮
which you know when you get wet. In a fog, you do not   p46-⑯
know you are getting wet, but as you keep walking you get    ⑰
wet little by little. /// If your mind has ideas of progress, you  ⑱
may say, “Oh, this pace is terrible!” But actually it is not.    ⑲
When you get wet in a fog it is very difficult to dry yourself.   ⑳
So there is no need to worry about progress. It is like    p46-㉑
studying a foreign language; you cannot do it all of a sudden,   ㉒
but by repeating it over and over you will master it.       p46-㉓
This is the Soto way of practice. /// We can say either that we ㉔
make progress little by little, or that we do not even expect    ㉕
to make progress. Just to be sincere and make our full    p46-㉖
effort in each moment is enough. There is no Nirvana        ㉗
outside our practice. ///              p46-㉘

2020年06月20日

エピクテトスの言葉を読む(テキスト)

【Zoom講座】エピクテトス      令和2年7月11日(土)
      天正寺 佐々木奘堂

◎エピクテトス(Epictetus)[西暦55 – 136年頃]
 『人生談義』(岩波文庫、上下の2冊。鹿野治助訳)[絶版で入手しづらい]
 『エピクテトス 語録 要録』(中公クラシックス、鹿野治助訳)[抄訳]
 以上の2冊の他に、数点の邦訳あり。英訳も3点入手した。
 これらとギリシャ語原文(英語対訳本)を参考にして、大事と思われる箇所を
佐々木奘堂が試訳した。[]内は、佐々木の説明・補足等。

・1巻6章:
君たちはみんな、「フィディアスの作品[金と象牙でできた巨大なゼウス像]を見ないで死ぬとしたら、なんて災難(άτύχημα)だ」と言って、それを見るためにオリンピアまで旅をする。
だが、ゼウスが現にここにいて、しかも諸作品にあらわれているのならば、わざわざ旅をする必要がないのではないか?
君たちは、ゼウスのこれらの作品を、見たり理解したりしたいと思わないのか?[君たち自身が、ゼウスの作品なんだよ。] 君たちは、自分が何者であるか、何のために生まれてきたのか、何のために見る力が備わっているのか、これらを知りたいとは思わないのか?

「でも人生には、不快なことや、困難なことが起こります。」
それでは、[不快なことや困難は]オリンピアでは起こらないのかい? 汗だくにならないか? 雑踏で狭苦しい思いをしないか? 入浴の際に不快な思いをしないか? 雨に降られてずぶ濡れになることはないか? 喧噪や騒動や、その他にもイヤになることはないか? 

だが、私が思うに、「これほど素晴らしいものを見ることができるのだったら」と、それらの不快なことをすべてしんぼうするのではないか? 
そうだ、どのようなことが起ころうとも、それを受け入れ、耐える力を君たちは授かっているではないか。大いなる心(μεγαλοψυχία:元の意味は「大きい息・心・魂」、気高さ、寛大さ、矜持などと訳されている)、勇気(άνδρεία)、忍耐力(καρτερια)を授かっているではないか。

もし私が大いなる心を授かっているのならば、いかなることが起ころうとも、それに煩わされるだろうか? 何が私を混乱させたり、不安にさせたりするだろうか? あるいは何が苦痛になるだろうか?

私は授かった能力を、目的に適うように使用しないままでいながら、起こる出来事に対して、悲しんだり嘆いたりしていてよいのだろうか?

「ですが、鼻水が垂れてきたりします。」
君の手は何のためにあるのだ? 手で洟(はな)をかめるではないか。
「すると、この世で鼻水が垂れるということは、道理に適ったことなのですか?」
そのようにぶつぶつ[不平や理屈を]言っているよりも、洟が出たなら、すぐに洟をかんだらよいではないか。
もしヘラクレス[ギリシャ神話での英雄]が、ライオンやヒュドラ[ギリシャ神話に登場する怪物]、牡鹿、猪、それから非道で邪悪な人間たちがおらず、それを退治し、打ち払うことがなかったとしたら、果たしてどれだけのものになっていただろう。これらの困難が何もなかったとしたら、彼はどうしただろうか。毛布にくるまって眠っていただろうか。
もし贅沢で安逸に一生を眠るように過ごしていたのだったら、そもそもヘラクレスになっていなかっただろうし、たとえヘラクレスになったとしても何の役にも立たなかっただろう。
あのような困難な環境が、彼を揺り動かし彼を鍛えたのでなかったなら、彼の腕力も、元気も、忍耐も、気高さも、何の役にも立たなかっただろう。[ヘラクレスは、困難や苦境の真っただ中で、必死に戦い、乗り越える努力をし続けることで、ヘラクレスたりえたのだ。君たちも同じではないか。](中略)

君たちもこれらのことに気づいたのなら、君自身のもっている能力に目を向け、[どのような力があるのか]よく見てみたらよい。そして次のように言うがよい。
「おおゼウスよ。あなたの欲するままに、試練をお与えください。なぜなら私は、あなたから授かった素質もありますし、起こる出来事の中で、それに打ち勝っていく能力もあるからです。」
ところが君たちは、そうはしないで、何か悪いことが起こりはしないかと恐れて震えたり、あるいは起こった出来事を嘆いたり悲しんだりうめいたりして坐っている。さらには神を非難さえしている。卑しい心のせいでこのような結果になっていることが、まさに「不敬虔」そのものではないか。

だが神は、どのようなことが起こっても、それに打ち負かされダメになってしまうのでなく、すべてを耐えて乗り越えていく力を私たちに授けてくださったのだ。それだけでなく神は、名君や慈悲深い父親のように、それらを支障も強制も妨げもなしに、私たちの権内のもの[私たちが自分で行使できる力]として与えてくださり、何の保留もしなかったのだ。
これらを自由に使える力を受けているにもかかわらず、君たちはそれを使用しない。何を授かったか、誰から授かったかさえ気づかないまま、その力が見えないままでいて、恩恵を与えられていることさえ知らずにいる。心が卑しいために、神に対して、不平や非難を向けたりしている。

ともかく、君たちが、大いなる心と勇気に関して、素質と能力を授かっていることを私は君たちに示そう。不平や批判に関しての素質を授かっていると、君たちがもし言うのだったら、それを示してくれたまえ。

・2巻8章:
君は素晴らしいものであり、神の一部だ。君の中に神の一部分をもっているのだ。
 君はなぜ君の血統が尊い[神の子孫である]ことを忘れているのか。自分が由来している根源を知らないのか[君の根源は神なのだ]。

 君は、食べる時、食べているのが誰であるのか、誰を養っているのかを知らないでいるのか。君が人々と交際したり、運動したりしている時、君は神を養い、神を修練していると気づかないのか。

 不幸な者よ、君は常に神と共にありながら、それを知らないでいるのだ。
 金や銀でできている外側にある神のことを私が話していると思っているのか? そうではない、君は君自身の内に神をもっている、そして不潔な考えや汚れた行ないによって、神に侮辱を与えていることを知らないでいるのだ。
 神の像が目の前にある時ですら、君は、普段行っているような行為を慎むであろう。だが、神は、君自身の内部に現に存在していて、[君の行なう]すべてを見たり聞いたりしているというのに、君はそのような考えや行動を恥ずかしいと思わないでいる。ああ、自分の本性を知らず、神の怒りを被る者よ。

 若者が学校を卒業し、実社会へ出る時、彼が何か間違ったことをしでかさないか、不節制な食事をしないだろうか、女性関係を過ちを犯さないだろうか、ボロの服を着て卑屈になりはしないだろうか、着飾った服を着て高慢になりはしないだろうかなどと、いろいろ心配するのはなぜだろうか? このようなことに陥る若者は、神[をもっていること]を知らず、誰と共に世を渡っているかを知らないのである。
 だが、その若者が、「私はあなた[神]と共にありたいのです」と言ったとしたら、それを聞くに堪えられようか。
君は神をもっているではないか? 神を自分の内にもっていながら、外に探し求めようとするのか? あるいは神が何か他のことを告げようとしているというのか。

 もしも君が、フィディアスの作った彫刻――アテナ、あるいはゼウス――であるならば、君は自分自身と自身を作った製作者との両方を心に留めるであろう。君が意識(認識力)をもっているのならば、君を作った製作者や君自身を辱めるようなことをしないように努めるであろうし、ふさわしくない姿で人前に現れないよう努めるであろう。
 だが、現にゼウスが君を作ったというのに、君はどのような姿であるかということを少しも気にかけないのか?
 君を作った作者[神]は、彫刻の作者と同じなのだろうか。神が作ったもの(君自身)と、彫刻家が作ったもの[彫刻作品]は同じなのだろうか。[この間には雲泥の差があるのではないか?]
 例えばどのような製作物が、その制作を通して発揮された力を、その作物の中に有しているであろうか? それは単に大理石、青銅、金、象牙に過ぎないのではないか?
 
 フィディアスの作ったアテナ像は、ひとたびその手をのばして、その上に勝利の女神ニケを載せたら、永久にその同じ姿のまま立っているだけではないか。
 だが、神の作品[君自身]は、動くことができる。命の息をしている。そして心を用いてはたらき、それを判断吟味することもできる。
 君は、この製作者の作品であるというのに、君はこの作者(神)を侮辱するのか?
 さらに神は君を作っただけでなく、ただ君自身を信頼して、君自身を託したのだ。君はそれを忘れて、この信頼を侮辱するのか? もし神が君に孤児を託したとするならば、君はそれをおろそかにするだろうか?
 神は君に君自身を託し、次のように告げているのだ。「君以上に信頼して任せられる人は他にいない。(ούκ εΐχον άλλον πιστότερόν σου)どうかこの人(君自身)を自然が与えた本来具足のものを発揮するよう、謙虚で、誠実で、気高く、ゆるがず、情念にながされず、平静であるように保ってくれたまえ」と。それなのに君は自分でこれに背いている。


・4巻12章:
 「私は何に注意したらよいのでしょうか?」
 まず次の普遍原理に注意すべきだ。それを常に用意し(覚悟し)、眠るにも、起きるにも、食うにも、人と交際するにも、これを離れないようにすることだ。その原則とは、「[自分以外の]誰も自分の意志の主人ではなく、善悪はこの意志にのみ存する」ということである。

 そうだとすると、誰も、私に善を与えてくれたり、悪に陥れたりする権威をもたないのであって、私自身だけが、これらについて私自身に権威をもっている。このことが確固たるものであるならば、外界の物事で私が悩まされたりすることがあろうか。いかなる暴君、いかなる病気、いかなる貧困、いかなる攻撃を恐れようか。
(中略)
 神は私を私自身に信託した。そして私の意志を私自身だけの自由にさせた。


・1巻1章:
私は死なねばならない。もし「今すぐに」というであるのなら、すぐに死のう。もう少し経ってからというのなら、今まず食事をしよう、そしてそれから死のう。
「どのようにですか?」
人から拝借した[大切な]ものをお返しする際にふさわしいような仕方で(ώσ προσήκει τόν τά άλλότρια άποδιδόντα)。


・4巻10章:
 「あなたが私を生んで下さったことに、私は感謝しています。あなたが与えて下さったものにも、私は感謝しています。これほど長い間あなたのものを使用して、私は満足しています。またそれらをお収め下さい。そして好きな処へお置き下さい。すべては[元々]あなたのもので、あなたはそれを私に[お貸しして]下さったのですから。」
 このような気持でこの世から去ることで満足ではないか。そして生活の中でどんな生活がこのような気持の人よりもよりすぐれており、より立派であるだろうか。どんな終りがもっと幸福であるだろうか。


・3巻24章:
 君が欲した時に君が生れたのではなく、宇宙が必要とした時に生れたのだ。
 だから知徳兼備の人は、…どうすれば自分の位置を秩序よく、そして神に忠実に満たすことができるか、このことだけを目的としているのだ。
 「あなた(神)はまだ私が存在することを欲しますか。私はあなたが欲したように、自由に、高貴に存在するでしょう。というのはあなたは私を、私のものにおいて妨げられないようにつくったからです。しかしあなたはもう私を必要しないのですか。よろしゅうございます。私は今まで、あなたのためにとどまっていました、他の何人のためでもありません、それで今も私はあなたに従って去ります。」
 「どのようにして君は去るか。」
 「またあなたが望まれるように。(πάλιν ώσ σύ ήθέλησασ)」



●第二巻 十九章 「真の信念と借りたる信念とに就いて」
『世界大思想全集3』(春秋社、昭和2年)から。佐久間政一訳。
(他に数名の訳も後に引用)

一、
 主要議論は次の如き諸命題から出発するように思われる。それは
(一) 過去の事柄はいずれも必然的に真である。
(二) 不可能事は可能事につづくことは出来ない。
(三) 現在真ではなく未来も真ではないであろうような事物は、 あり得るものだ、
と云う三個の命題であって、その間には相互的矛盾が在る。
(註)主要議論と云うものは、それの取扱う問題が、甚だ重要だからであって、ストア派の学徒はこれらの議論を、いろいろに解釈した。例えばダイオドラスは、過去及び未来の事物を「必然」だと考え、クリアンジーズはこの両者を「偶然」だと説き、クリシパスは過去の事物を「必然」、未来の事物を「偶然」だと考えた。三個の命題のうち、いずれの二個も第三の命題を排除するのである。――英訳者の註によりて。
 しかるにダイオドラスはこの矛盾を認めて、初めの二命題を使用し、第三のもの、即ち現に真実ならず、将来もまた真実ではないような事物の可能なることを論駁して、そのあり得ざることを立証しようとした。また或ものは第三の命題と第二の命題――即ち不可能なる事は、可能なる事に継いで起ることなしと云う命題――とを用うるけれど、第一の命題即ち過去の事物はいずれも、必然的に真実だという事は、決して無いと論ずるのである。クリアンジーズ派の人々は、かくの如く考えて居るように思われる。アンティパータアはこの人々を非常に弁護した。然しまた或人々は、第三のものと第一のものとを支持するけれど、また不可能なる事物は、可能なる事物に継起するという第二の命題をも主張する。さりながらこの三者を、同時に保持するのは、不可能である。これ蓋し三者は本来相互に矛盾するものだからである。

二、
そこで今誰かが、『これらの命題のうち、いずれをおんみは採るか?』と私に訊ねるなら、私はこう答えるであろう。『私は知らない。しかしダイオドラスは、そのうちの或ものを主張すると聞いた。私はまた、パンゾイデスやクリアンジーズの弟子たちが、それとは別な命題を採り、クリシパスの門下はまたそれらとは異なつた命題を主張すると考える』と。
(そうするとその人は更に訊ねるであろう?)『おんみ自らの考えは』。わたしは答えて曰う。 『否、私自身の思想を試験し、諸々の議論を比較し、評価し、またこの事柄について自説を作るのは、私のなすべき事ではない。』
(註) これらのことは、実は思索する人々の当然なすべきことであるから、エピクテータスは勿論アイロニカリーに述べているのである。――英訳者の註によって。
 それ故私は文法学者と何等の異なるところもない。ヘクタアの父は誰であつたか? 「ブライアムである。… ヘラニカスも彼等に就いて書いたと思う。なおその他にもあるだろう。」
 さて私は、主要議論について、もっとよりよき事を云うべく持って居るだろうか?
 然し若し私が虚栄ずきな人間であるなら、特に宴会などでは、この事について述作した人々の説を列挙して、並居る人々をおどろかすであろう。…「おんみはまだ此を読まないのか? 読まなければ読んで見よ!」
 然しこれを読んだところで、その人にどんな益があろうか? 彼は今よりもより饒舌な人となり、より厄介なものとなるだけであろう。
何となれば、おんみ自身それを読んで、他にどんな益があつたか。この事柄についておんみは独りで、どんな意見を樹立したか?[そうしようとすることがそもそも不可能だし不要ではないか] 何等の意見も立てられなかった。[この2文は原文にあるのかな?]
ただおんみはヘレンやプライアムについて、また決して存在したこともなく、将来に存在することもないところのカリプソの島に就いて、われらすべてに物語り得るにすぎないであらう。
(註) これらの本を読んだところで、どんな道義上の見解も得られるものではない。丁度文法学者が、ホーマーを読んで、それから得た歴史的の記憶事件を他に伝達し得るだけであると同様に、おんみもまたそのなかに現われた歴史的の事項を知り、これを他に伝達し得るだけであろうの意――独訳者の註によりて。

三、
而してホーマーを読んで、おんみは単にその事件に通暁するだけで、おんみ自身の意見をつくらなかったとても、それは実際大したことではない。(独訳者によれば、「実際驚くには足りぬ事だ」。)
 しかしこの事は、倫理に関する方面において、他の事柄よりも遙かに度数多く見られる事柄である。

善と悪とに就いて私に語れ! と云うのか。…
 『事物のうち或ものは善で、或ものは悪であり、その他のものは、普でもなく悪でもない。さて善いものは、徳および徳の性質を有するものであり、悪いものは不徳及び不徳の性質を具有するものである。そして善でもなく悪でもないものは、財産・健康・生命・死・快楽・苦痛の如く、善と悪との中間に存するのである。』 
 どうしておんみはそれを知って居るか?[誰から聞いたか、読んだか、などの問題に執らわれているのは無意味ではないか?] …何となれば、ダイオヂェニーズがそれをその著『倫理学』のなかで説こうと、クリシパスが述べようと、或はまたクリアンジーズが教えようと、それは同じことではないか。
しかしおんみは彼等の言葉の或ものを検覈[けんかく。調べること]して、おんみ自ら意見を立てたか、どうか?[そんなことをする必要があるのか?] おんみが海上で、暴風雨に逢ったとき、如何にそれに堪えるかの方法を、私に見せて呉れ。…[危険の真っただ中にあるのに、人が抽象的な議論をしかけてきた例]… 
おんみはこの時杖を執って、それを彼の顔前で振り、『われわれに構わないで呉れ。 おれ達は死にかけて居るのだ。お前はわれわれをからかいに来たのだな!』と言わないであろうか? …
 ――『さりながら哲人よ、何故におんみは戦慄するのか、その訳を私に話して呉れ。――おんみが危険に瀕して居るというのは、単に死ではないか、或は幽閉ではないか、或は肉体的の苦痛ではないか、或は追放または汚辱ではないか? その他に何があろう? それが悪徳であろうか、或は悪徳の性質を有する或ものであるか?』
 そしておんみは次のようなことを答えるであろう。『私を構わずに置いて呉れ。私自身の災厄だけで、私にとっては沢山である』と。
 まことにおんみの言うところは正しい。何となればおんみ自身の災厄は、おんみに取って充分であるから。―― その災厄とは、卑劣性であり、臆病であり、またおんみが哲学の講堂に坐した時のおんみの偽りの誇揚である。
 おんみは何が故に、他人の光栄でもって自らを飾るか? 何が故におんみは自らをストア学徒と云うのであるか? 

四、
おんみたちは自らの為しつつある事について、自らを注意して見るならば、おんみ達は自らが孰(いず)れの学派に属するかが分るであろう。おんみ達の最も多くはエピキュラス派のもので(エピキュラスは西暦前340-270年の人で、所謂快楽論者である――訳者註)、僅少のものがペリパテティック派(アリストートルの学派)に属して居り、然もこれらの人々すら、可なり緊張せざるものであることを見出すであろう。何となれば、おんみたちが徳を以て他のあらゆるものに匹敵し、或は実際それ以上の価値あるものだと考える証拠がどこにあるか? 若しおんみたちのうちにストア学徒があるなら、示して呉れ。どこに、而して如何にしておんみたちはそれを持ち得るか? しかしストア派の文句を繰り返えすだけの人ならば、おんみたちはそのいくたりかを示すことが出来る。彼等はまたエピキュラスの学説をも同じように良く繰返えすことが出来ないか? そしてまたペリパテティックの学説においても、同様に正確に述べないであろうか。そこで真のストア派の学徒とは、一体誰であるか?
 われらが、フィヂィアスの芸術に則って制作された彫像をフィヂィアス派と云うように、自分自身の唱導せる学説に則って作り出された人を、私に見せて呉れ! 病でも幸いであり、危難に臨んでも幸であり、死に瀕しても、追放されても、悪評を受けても幸であるような人を、私に見せて呉れ! かかる人を私に示してもらいたい! 本当に! 私はストア学徒に会いたいのである! 
若しまたおんみたちにして十分に仕上げたものを持たないなら、少くとも制作中のもの――即ちこれらの事柄に傾いて居る人を示せ! 私にこの恩恵を与えよ! この老人が未だ嘗て見なかったものを、今見せ吝(おし)んでは呉れるな! 
おんみたちは私が、すっかり象牙や金で出来て居るフィヂィアス作のアゼィーネの神や、ジェウス神の像を見せてもらいたがって居るのだと考えるのか? 否、然しどうぞ、神と同じ心であることを冀(こいねが)い、神をも人をも責むることなく、努力や忌避において失敗することなく、忿怒もせず、嫉妬もせず、また羨望もしないことを望む心を――私は何故にこう廻り遠く云わなければならないのか? 人間から神になろうと願う人の心を――われらのこの肉体は、この死せる身体のうちに居て、自らが神と同胞なることを認識する人の心を、私に示して呉れ! そう云う人を見せてもらいたいのである! 
しかしそれは、おんみたちのなし得るところではない! 然らば何が故におんみたちは、自らを嘲(あざけ)り、他人を欺こうとするのか? 何故におんみらは、他人の衣をつけて、かの浴場から衣服を窃取する泥棒のように、決しておんみの所有ならざる名称や事物を携えて、歩き廻わるのであるか?(何故におんみたちは他人の衣をつけて、おんみ自身に属せざる名称および事物の窃盗及び強盗として歩き廻るのであるか――独訳)

五、
而して今私はおんみたちの教師であり、おんみたちは私の教を受けて居る。私はおんみらが妨げられ・強いられ・煩わされることなく、自由に・繁栄に、幸編に・そして一切の大小事項に於て神のみを顧みるように、おんみたちを作り上げると云う目的を持って居る。おんみらはこれらの事を学び、またそれを行うべくここに居るのである。
 而しておんみらは自己に適当する目的を有し、私はまたこの目的の外に、私に適当する能力を持って居るとすれば、何故におんみらは、その仕事を完成しないのか? この場合、欠如せるものは何であるか? 私が大工とその側に横われる材木とを見るときは、私は或制作を待ち設ける。然るに今ここには大工あり、ここに木材がある。それで今何が欠如して居るか? 
 かかる事は教えられ得ないものであるか? いや教えられ得るものである。しからばそれはわれらの力の及ばざるところのものであるか? 否、世間の万事のうちで、これだけがわれらの力の左右し得べきものである。ただ表象の正常な使用だけを除いては、財産も、健康も、名声も、又は他の何物も、われらの力の左右し得るものではない。表象の正しい使用のみは、その性質上、他の妨げ得るものではない。これのみは煩わされるものである。然らば何が故に、おんみたちは完成の域に入らないのか。この理由を私に告げよ! … しかし事柄それ自身は、成し遂げられ得るものであって、実にわれらの力の支配し得る唯一のものである。…
 しからばおんみ等は、どうしようと欲するか? 結局われらは、われらの間にかかる目的を抱くべく始めようではないか。而して過去たらしめよ。ただわれらは始めよう。私を信頼せよ。さすればおんみたちは(結果が)解るであろう。


◎中島祐神訳『我等は如何にして自己を救ふ可きか』(早稲田大学出版部、大正10年)
 もし誰かが私に向って此等の命題のどちらを支持するかと聞くならば、私は知らぬと答えよう。然し聞く所に拠れば、ディオドロスは一説を、又パントイデースの門下等(私はそう思うのだが)とクレアンテースとは他説を、クリシッポスは第三説を支持したと云う事である。
 『ではおまえの意見は?』
 何もない、私は自分に映じた外物の表象を吟味する為に生れたのではない、他人の意見を比較したり、それから君の云う小論件に就いて自分自身の意見を立てる為に生れたのでもない。それ故私は(自分が読んだ事を繰り返す所の)文法家と選ぶ所がない。

 『それでは読め。』 それによって我々はどれだけの利益を受けるであろうか。現在よりも一層詰らない無遠慮な人間になるであろう。何故なら、それを読んで外に何の得る所があったか。何もない。唯だ、ヘレンやプリアムや、過去に存せざる又将来にも存せざるカリプソ島の事を知るだけである。そして実際こう云う事柄に於ては、君が其の物語を覚えていながら自分自身の意見を立てなかったとて大した問題でない。

 何故君は自己の所有にあらざるもの(他人の言説を借りて)を以て自己を装飾したか。何故ストア学徒と自称したか。
 斯くの如く自己の行動に照して自己を考察せよ、然らば自分がどの派に属するかが判るのだ。君等は大概エピクーロス派で、…。

 然し君はできない、然らば君は何故自己を欺き他人を欺くか。して何故他人の衣を着(つ)け、それを纏うて、自己の所有ではない所のこう云う名称や事物を盗用して歩き廻るか。

 そこで、結局我々がこう云う目的を此の学校へ導入しようではないか。我々をして過去の一切を擲却せしめよ、唯だ第一歩より始めしめよ、私を信ぜよ、然らば結果は現れるであろう。


◎高橋五郎訳『エピクテタス遺訓』(玄黄社、大正元年)
 今若し人ありて、我に汝は此中孰れの見を持すやと言うならば、我は彼に答えて言わんとす、我は知らず、只ヂオドラスは其中の若干を持すとの話を聞けるのみ、意うにパントイデスとクレアンテスの弟子達は他の若干を持し、クリシッパスの弟子達は猶他の若干を把らん。而して汝はと問われんも、我は己の思想を吟味し、衆説を比較軽重し、自己の説を本件に立つるは、我の事に非ず。斯く我が為す所は毫も文法家と異なる所あらず、…

 然らば之を読め、之を読む事、其人に何の益をか為すべき。彼は今よりも一層饒舌となり、邪魔物とならん。該著の閲読は此外汝に何等の益をか与えん。如何なる意見をか汝は此の問題に就て立て得んや。否な、汝は只ヘレンやプリアムの事を語り、全然空なるカリプソの島の事を語り得ん而已。

 寔(げ)に汝善く言えり、汝の悪は既に汝に足れり、そは他なし、卑怯なり、怯懦なり、汝が哲学者として立つの妄称なり。汝何ぞ他(ひと)の光栄を以て己が身を飾るや。汝何ぞ自らストイクと称するや。
 汝等は斯く汝等が為す所の事に徴して自己の何たるを視よ、然らば何の学派に属する者なるかを見ん。汝等の最大多数はエピキュラスの徒なるを見ん、…。

 汝は断じて能わず。然らば何ぞ自己を愚弄し、他人を欺罔せんとするや。何が故に汝は他人の衣を纏い、浴堂より衣服を偸(ぬす)める賊の如く、汝に属せざる名や物を附けて歩きまわらんとするや。

 然らば汝等如何せんとするか。我等更に志を立てなん、既往は追わじ、只請う我等再び新たに始めん、我に信頼せよ、然らば汝等は其効果を見ん。


◎稲葉昌丸訳『エピクテタスの教訓』(浩々洞出版、明治40年)
 いま人あり、吾れに対して「爾は此の中孰れを主張するか」と問わんに、吾れ答えていうべし、吾れ之を知らず、されど伝説によると、ヂオドロスは其一を執り、パントイデス及びクリアンテスの徒は他の一を執り、クリッシッポスの徒は又一を執りたりと。云く、爾自己の意見は如何と。否とよ、吾が思想を労して諸立論を比較商量し、此の材料の上に自説を作るは、吾が事にあらず。斯くて吾れは文法家と多く異ならず。

 『されば之を読め。』 而して之を読みて何の所得かあるべき。其人は一層饒舌、厭うべき人となり、他に何の得る所もなかるべきなり。其故は、此題目につき爾は何の自説を作りたるか。あらず、ただヘレンやプリアムやの事を語り、今だ嘗て存在せず将来もなかるべき、カリプソ女神の島につき語るに過ぎざるべきを以てなり。

 爾の災禍は爾に取りて十分なり。災禍とは窄量をいうなり、怯懦をいうなり、又爾の佯(いつわ)りて哲学者なりということなり、爾は何故に他人の光栄を以て自ら飾るか。何故に自ら読んでストア学徒というか。
 爾は自ら其為す所の事に注目せよ。爾が何の学派に属するかを見よ。多くは是れエピキュロス学徒なり、少数の者は…。

 爾は示すを得ざるよ。然れば爾は何故に自ら愚弄し他を欺瞞せんと欲するか。何故に爾は、洗浴場より盗みたる人の如くに、他人の衣服を被り、爾に属せざる名と物とを携えて徘徊するか。

 然れば爾は如何にせんとする。吾人をして遂に斯かる目的を抱かしめよ、而して過去は過去たらしめよ。唯だ夫れ事を始めよ、――吾れに信頼せよ、而して其効果を見るべきなり。

◎参考(ネットからとったエピクテトス名言集)
・『与えられたるものを受けよ。与えられたるものを活かせ。』
・『逆境は、人の真価を証明する、絶好の機会だ。』

・『侮辱は相手のせいではなく、侮辱されたと思い込むせいだ。』
・『人を不安にするのは、物事ではない。物事についての意見だ。』
・『あなたを罵倒したり、殴ったりする人間が、あなたを虐待するのではない。それを恥辱だと考えるあなたの考えが、あなたを虐待するのだとよく考えなさい。』
・『あなたのことを人が悪く言う。それが、真実なら、直せば良い。それが、虚偽ならば、笑えば良い。』

・『哲学とは、自分の幸福が外からの事柄にできるだけ左右されぬように心がけて、生きることである。』
・『幸福への道はただ一つしかない。それは、意志の力でどうにもならない物事は悩んだりしないことである。』
・『自由な意思は、盗人の手の届かない財宝である。』
・『病気は身体の障害であるが、気にしない限り意志の障害にはならない。』

・『自分が不幸なとき、他の人たちを非難するのは無教養者、自分自身を非難するのは教養の初心者、そして他人をも自分をも非難しないのが本当の教養人である。』

・『先ず、自分に問え、次に、自分で行え。』

・『聞き上手は、ひとつの技能である。』
・『神は人間にひとつの舌と、ふたつの耳を与えた。しゃべることの2倍多く聞けということだ。』

・『よい作家になりたいなら、書くことだ。』

・『我々を救ってくれるもの、それは友人の助けそのものというよりは、友人の助けがあるという確信である。』

・『人間の本性には、動物と通い合う肉体と、神々と通い合う理性・英智とが混じり合っている。』
・『この地上で最も程度が低いものは貪欲・快楽欲・大言壮語。最も高いものは寛容・柔和・慈悲心だ。』
・『快楽に抵抗する人は賢者。快楽の奴隷になるのは愚者。』
・『金銭、快楽、名誉を愛する者は、人間を愛せない。』

・『正しき人は、心の状態を最も平静に保つ。不正なる人は、心の状態が極度の混乱に満ちあふれている。』

・『あなたの敵にどうやって復讐すべきだろうか?できる限り多くの善行を行うよう努力しなさい。』
・『容赦は、いかなる復讐にも勝る。』

・『己れ自身を統治しえぬ者は自由にあらず。』

・『順境に友人を見つけることは簡単だが、逆境に友人を見つけることは極めて難しい。』

・『何かを究めたいなら、外には愚かになれ。』

・『人間の良心のみが唯一、あらゆる難攻不落の要塞より安全なよりどころだ。』

2020年07月11日

沢木興道老師の言葉

沢木興道老師(1880-1965)の言葉を読み味わいたいと思います。

 

こちらをクリックしてください

沢木老師は、私が生まれる前の年に亡くなられているので、
この世に同時期に生存したことはない方ですが、
その言葉は、本当に今を生きる私の心にストレートに響いてきます。

沢木老師は、「法然上人は日本で初めて生きた本当に仏法に
眼を開いた人である」と語っていますが、
近年の仏教の世界で、最も法然上人を髣髴とさせる方は
沢木老師ではないかと、私には思えています。

「坐禅が世渡りになるということは、永久にその人は救われないということにな
る。これほど悲惨なことはない」

本当に恐ろしい言葉です。
世渡りや処世術はとても大事なことですが、
それで救われない人は、どうしたらよいのでしょう?

坐禅や仏教までもが、世渡り・技術になってしまったら、
永久にその人は救われないのではないでしょうか?

身体技法や処世術でない端的なところに
立ち返る道があります。

この道一筋に生きた方が沢木老師であり、
私たちもその道を歩んでいけます。
沢木老師の言葉を、自分に語られた言葉として
耳を傾け、読み味わっていきたいと思います。

 

2022年02月21日

「腰を立てる」読誦用(6月5日)

「腰を立てる」がいかに重要か、
を味わい深めていくための資料です。

 

こちらをクリックしてください

私の人生は、ほぼすべてこの
「腰を立てる(すえる)」
の探求だけをし続けてきました。

「腰を立てる瞬間、一切が変わる」
と岡田虎二郎が語っていますが、
本当にその通りです。

この実践と体験が、深まれば深まるほど、
これが人が生きる上で
いかに大事なことかが痛感されてきます。

人生の極意、最高の秘訣である
「腰を立てる」道を歩んでいくよう
ともに実践していきましょう。

2022年06月08日

坐禅は苦行からの解放

令和4年6月作成

読誦用としても用いる資料です。

つらぬくテーマは、

「仏教・坐禅は苦行らの解放」ということです。

 

こちらをクリックしてください

 

普通(自然)にしていると、私たちは、
知らず知らず自ら「苦行」してしまっている
傾向があるようです。
いかにして、この本来の生命を
自ら害ってしまうあり方を脱して、
本来の生命の輝きを発揮していけるのか、
この課題への画期的な取り組みの道を
発見したのが、お釈迦さまであると思います。

2022年06月22日

良寛さんの自警(直筆)ほか

良寛さんの言葉、とても心に響くものを資料としました。

ここをクリックしてください


「自警」で、「邪見の人」や「愚痴の人」、「重悪の人」や、長く病気を患っている人や、身体に障がいのある方、孤独の人、不遇の人などを、お釈迦さまがどのような思いで見ておられるか。

これを読むと、とても身につまれさますし、また励まされると思います。

「愛語」は、愛の心をもって語る愛の言葉の意味で、道元禅師の言葉を、良寛さんが書いた直筆が残っています。

「戒語」は、良寛さんが自らへの戒めで書いたもので、とても身につまされます。

 

2022年06月26日

講座7月3日(日)の資料「気を充たすことと生命の風」

令和4年7月3日(日)の講座での資料です。

こちらをクリックしてください

「気を丹田(全身)に充たす」ことが坐禅でとりわけ大事なことです。

ギリシャ語で「プネウマ」という言葉は、「気」「息」「いのち」を意味します。

いのちの風(気)が体に充ちるとは、どういうことかを深く考える際に大事な言葉を記しました。

2022年07月08日

親鸞聖人直筆で学ぶ仏教7月31日

令和4年7月31日(日)の講座で用いたテキストです。

親鸞上人の直筆文字で、
仏教の一番大事なところを味わいたいと思います。

 

こちらをクリックしてください

「散乱の心のままで
一度『南無仏』と称えれば
みなすでに仏道を成じている」
(法華経の言葉)

また、『涅槃経』から、
お釈迦さまはすべての人を愛しているけど、
特に罪の深い人のことで心がいっぱいになっている
という言葉を読み味わいます。

このような点は、親鸞聖人の仏教も、
禅も何一つ違いがないと思います。
とても励まされる言葉です。

2022年08月13日

聖徳太子直筆で学ぶ仏教8月7日

8月7日(日)の講座で用いたテキストす。

 

こちらをクリックしてください


聖徳太子直筆文字から、
法華経の大事なところを学びたいと思います。

 

法華経では、「譬え話」で、

人が生きる上で最も大切なもの、

お釈迦さま(あるいは仏さま、神さま)の

愛(慈悲)を語ってくれています。

 

この愛(慈悲)を聖徳太子も

日本人がいかに生きていくかの根本とされました。

 

それを学んでいきたいと思います。

2022年08月13日